被虐嗜好とぬいぐるみ
雨宮羽音
被虐嗜好とぬいぐるみ
家族が増えた。
それは突然の出来事だった。
都内の大学に通う僕のアパートで、十歳の少女がしばらく一緒に暮らすことになったのだ。
彼女は叔父夫婦の一人娘で、僕にとっては
生活雑貨が散らかった八畳程の部屋に、僕と彼女。
互いの間を隔てる一人用の座卓は、二人で使うには少し小さすぎる。
膝を抱えた少女は、重みを感じる漆黒の長い髪を床に垂らし、顔を埋めた膝から覗かせた瞳で警戒するように僕を見つめていた。
「大変だったね……まさか事故だなんて……」
沈黙に耐えきれず、僕は何の意味も無い言葉を少女にかける。
彼女の両親は交通事故で亡くなった。
同じく都内の一等地に住む三人家族だったのだが、家で留守番をしていた彼女のもとへ叔父夫婦が帰ってくることは無かった。
葬式やら何やらのごたごたはすでに済んでいる。はるばる遠方から駆けつけた僕の両親や親戚達が全て段取りをしてくれた。現在は事務的な手続きと、彼女の引取先の調整をしてくれているはずだ。
その間だけ彼女の面倒をみることになった。
近場で頼れる親戚が居ないこと。そして僕が大学のそばに住んでいて、単位の都合上暇を持て余していたことが原因だ。
「自分の家だと思ってくつろいでくれていいから……狭いワンルームだけどね」
「…………ありがとう、お兄ちゃん」
少女は消え入りそうな声でそう言った。
兄弟姉妹のいなかった僕にとって、彼女のような女の子とどう接してあげたらいいのか見当がつかない。
いささか不安をはらむ共同生活が始まることとなった。
*
しかし案外、彼女との生活は滞りの無いものだった。三日が経ち、それをひしひしと感じている。
僕が留守にしている間に部屋を掃除したり、洗濯物を畳んだりと家事をしてくれていた。
たった数日、それも来たばかりの家でそんなことが出来るだなんて、もしかすると叔父夫婦は教育熱心な親だったのかもしれない。
僕が朝昼夕と食事の用意をする際も、彼女は甲斐甲斐しくお手伝いをしてくれた。
年齢の割りに落ち着いた雰囲気を持っていて、口数が少なく意思疎通をするのには少し苦労させられてしまうこともある。でもそれは彼女の生まれ持った性格なのだろう。
子供との接し方が分からない僕にとって、それは助かる部分でもあった。
そんな彼女だったが、家事をしている時以外はずっとテレビにかじりついていた。
最初はテレビを見るのが好きなのかと思った。しかし見ているのがニュースや討論など、子供には理解が難しそうな番組だったとしても黙って画面を眺め続けている。
不意に話しかけると、はっとした様子で我に返ることもしばしば。どうやら彼女はテレビを見ている訳では無く、ただぼーっとしているだけのようだった。
つまり、暇を持て余しているのだ。
「プレゼントを買って来たんだけど──」
そんなおり、僕は大学の女友達に相談して、彼女に贈り物を用意した。
最初は驚いて固まっていた少女だったが、自分の身の丈の半分も大きさがあるラッピングをいそいそと開け始めて、中身に目を丸くしていた。
それは大きな大きなクマのぬいぐるみだった。
「なあに? これ」
「ぬいぐるみだよ。知らない?」
「ぬいぐるみってなあに?」
「そっか、もらったことが無かったんだね……ぬいぐるみっていうのは……なんだろ、人形というかなんというか」
少女のまさかの反応に答えに困る。
「君と遊んでくれるお友達かな。家族でもいいけど」
「どうやって遊ぶの?」
「うーん。喋りかけたり、着せ替えたり、好きなようにしていいんだよ」
「ふーん……」
黙ってしまう少女を前に、僕は失敗だったかと不安になる。何か別のものがよかったのだろうか。
しかしそんな不安も、彼女がぬいぐるみをギュッと抱きしめたことで吹き飛んだ。
少女は初めて見せる満面の笑みを湛えて、僕に向かってはにかんだ。
「大切にするね!」
*
それからというもの、少女は常にぬいぐるみを手放さなかった。
一緒に買ってあげた洋服を着せ替え、ことあるごとに語りかける。
時たまぬいぐるみに声を当てて僕に喋りかけてくる様なんて、微笑ましい以外の感情は浮かんでこなかった。
プレゼントを贈ったのは正解だったと確信が持てた。
だがその考えも、一週間が経った頃に覆されることになった。
僕が大学から家に帰ると、部屋の中にはクマのぬいぐるみが散乱していた。
体がバラバラに引き裂かれ、綿と毛糸が辺りに散らばっている。
部屋の中央に彼女は佇んでいた。その手にはクマの頭部が抱えられている。足元に転がって入る大きめの裁ち切り鋏は、おそらくしまってあった裁縫道具から持ち出したものだろう。
「なにやってるんだ!?」
僕は思わず声を荒げた。
彼女に歩み寄り、そっと肩を掴んで面と向かう。膝立ちで目線の高さを合わせた。
「どうしてこんなことを……」
「愛していたから──」
少女は感情のこもらない声でつぶやいた。
それでも僕と目線をしっかり合わせてくる。
「わたし、この子が好きよ。だから──」
「だったらなんでこんな酷いことを……」
「ひどいこと……? だってぬいぐるみでしょう? だったらパパとママみたいに愛をカタチにしてあげなくちゃ」
僕は言葉を呑んだ。
背筋をじわりと悪寒が走る。
「わたしね、気づいたの。わたしはぬいぐるみだったんだって……お洋服を着せて、話しかけて、可愛がる。それってパパとママがわたしにしてきたことと一緒なの」
少女は微かに微笑み、つらつらと言葉を吐き続ける。
どこか嬉しそうにみえるその姿を、僕はどうしようもなく薄気味が悪く感じてしまう。
「ママは私をよく叩くの。最初はなんでか分からなくて悲しかったけど、いつも最後には泣きながら愛してるって言うんだ。
パパはね、ママと喧嘩するとすごい怒って、でもそういう時はわたしのところにきて、わたしの上にのっかてね、それでね──」
「もういいよ。それ以上聞きたく無い!」
「──笑って言うんだよ? 愛してるって……」
僕は彼女を抱きしめた。強く強く。壊れてしまいそうなほど強く。
少女の膝が崩れて、その場にぺたりと座り込む。それでも僕は彼女を離さなかった。離してはいけないと思った。
彼女に必要なのは新しい家族や居場所では無い。その前にしかるべき場所で、心のケアをしてあげるべきだ。
僕なんかでは力不足で、それを歯痒く感じるけれど、彼女のために出来ることをしてやろうと強く決意が生まれ始めていた。
僕の腕の中で、少女がか細く呟く。
「……ねえ、わたしを叩いてよ」
「ごめん……それは出来ない」
「どうして?」
「それは間違った愛情表現だから……いや、そもそも愛情表現ですらないんだよ」
「そっか……お兄ちゃんはわたしを愛してくれないんだ……」
「だからね、傷付けることは愛じゃ──」
ドスッ、と鈍い音がした。
瞬間、僕の左首筋に鋭い痛みが突き刺さる。
「がはっ──」
一瞬で思考がぐちゃぐちゃになった。
何が起きたのか理解できない。
熱いものが僕の首から溢れる。
痛みは激しさを増し、意識が掻き乱れていく。
──刺された? 落ちていた裁ち切り鋏で?
──誰に? 目の前の少女に?
「わたしはお兄ちゃん好きよ。だから愛して欲しかったのに──」
僕は思わず彼女を突き飛ばした。
手加減なんて出来ない。少女は壁にぶつかり床に伏した。
それでも笑っていた。ふふふ、と満足そうに声をもらしている。
「いたい……愛されてる……わたし愛される!」
「君は……ごほっ……」
うまく喋れなかった。口内を血の味が支配する。傷は深く、喉まで達しているのかもしれない。穴の空いた静脈から血液が溢れていくほど、どんどん力が入らなくなっていく。
血溜まりが広がる。
意識が薄れていく──。
霞む視界の中、少女が僕に歩み寄る。
その手には赤く染まった鋏が握られていて──。
「これで〝そうしそうあい〟だね。わたしはお兄ちゃんのぬいぐるみで……」
──高く掲げたそれを、彼女は僕に振り下ろした。
「お兄ちゃんは──わたしのぬいぐるみ」
被虐嗜好とぬいぐるみ・完
被虐嗜好とぬいぐるみ 雨宮羽音 @HaotoAmamiya
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