第22話 サロン・デ・ルフュゼ
広い庭園から続くポーチ前で
「このお屋敷が下宿なのですか?」
「すごいだろ。うちの横濱の仮屋敷より大きいからな。あっ先生、今住み込みの下男だと思っただろ。ちゃんと家賃は払ってるからな」
ふくれ面で言った寿太郎の身なりは、洋装のなんたるかを知らぬ信乃から見ても上等だと分かる。
そういえば最初に会った時だって、仕立ての良いスーツに舶来の羊毛フヱルトで出来たトンビのコートを着ていた。
赤銅色の
寿太郎が扉に取り付けられた真鍮の輪を二度叩くと、
丁寧にアイロン掛けされた執事服を着た男は、信乃の姿にさっと目を通し慇懃にお辞儀をした。
「私は当家の執事をしております
「私は高村君の――知り合いで
「深山様でございますね。お初にお目に掛かります。どうぞお構いなく、ごゆっくりなさってください」
信乃は内心で焦っていた。もう少し相応しい着物を着てくるべきだったと。
せめてもと羽織の房を整え、両手を揃えて丁寧に頭を下げると、いきなり腕に縋り付いてきた寿太郎が信乃を左右に揺さぶった。
「知り合いってそりゃないよ先生。飯塚さん、俺たちちゃんと友達だからな」
ややこしいことを言い出した寿太郎に、訝しげな表情を浮かべた飯塚がこちらをじっと見ている。
「ちゃんとってなんですか、それに友達だと言った覚えは……ゆ、友人みたいなものです」
飯塚から見えない位置で寿太郎のジャケットの裾を思いっきり引っ張って早口で言った。
「執事さんがいるなんて聞いてませんよ」
「大丈夫だって、取って食われないからさ」
寿太郎は子犬の入った籠を飯塚に預けて屋敷内へとさっさと入っていってしまった。
エントランスホールに入っても二人がヒソヒソと言い合いをしていると、不意に男の笑い声が響いた。
「ようこそお客人」
コツコツと床を叩く固い音と共に、ホール奥の扉から杖を突いた壮年の男が現れた。
「もしお時間があるようなら手土産代わりにお茶の一杯でも付き合ってくれないかね」
半時後、信乃は屋敷の主と共に、一階の大広間に面したテラスで会食の席に着いていた。
――どうしてこうなった。
レースのあしらわれた上品なテーブルクロス、白地に金絵付けの珍しい洋食器と銀のカトラリー。足元を見れば子犬が上機嫌で温かい牛乳を舐めている。
信乃は今日の帰りに寿太郎の依頼を正式に断るつもりだったのだ。
信乃が初めに考えていた計画は、寿太郎の残された滞在日数が少ないことを利用して無視するか煙に巻いて時間切れを狙うものだった。
しかしそれでは寿太郎には通用しないだろうと考え直した。
寿太郎は妙に勘が良い。しかもしつこい。いっそ執念深いといっていいだろう。普通の人間なら二度も無視をされれば諦めるものだ。
だからもう一度会って説明をし、寿太郎自ら納得の上で諦めて貰うことが一番だと結論づけた。
その為にはこれ以上詮索されないよう、切り出し方法はできる限り穏やかに、禍根を残さないよう静かに消える。そう画策していた。
結果、信乃は目の前に所狭しと並べられた焼きたてのガレットや真っ白なメレンゲ、粉砂糖をまぶした揚げ菓子、珍しいチョコがけパンやらを前にため息を吐いている状況に陥っている。
寿太郎は自分の事を運が悪いように言っていたが、この状況を狙って作っていないのだとしたら、よほどの強運の持ち主としか言いようがなかった。
そう考えていると、給仕がぞろぞろとやってきてカップや菓子が新しいものに取り替えられる。なぜまたテーブルをセットし直しているのか信乃が面食らっていると、屋敷の主が楽しそうに言った。
「芸術を語る
英国式と何が違うのか信乃にはよく分からなかったが、対応させられる給仕たちは淡々と作業をしている。
金持ちの道楽とは良く言ったものだが、異国のしきたりはとても興味をそそる。
熱い珈琲がカップに注がれ、芳ばしい香りが漂う。次いでミルクピッチャーと上品な大きさの角砂糖が二つ、カップに添えられた。
信乃が残念な大きさの角砂糖をじっと眺めていると、それに気づいた寿太郎が「どうぞ」と砂糖壺をまるごと押し付けてきた。
要らぬお節介をする男を横目で睨みつつ、追加の砂糖はありがたく頂くことにした。
「さて、準備も整った。始めようではないか」
給仕たちが一斉に室内に下がり、代りに執事の飯塚が翁の後ろに控えるように立つ。
「まずは自己紹介からさせてもらう。儂は東城
信乃は最初に感じた違和感を理解した。杖は足が悪いのではなく目が悪かったのだ。
今も執事がカップの位置を調節したり、菓子を取り分けたりと
「翁の名前って初めて聞いたけど、どこまでが名前なんだろうな」
寿太郎が焼き菓子に手を伸ばしながら小声で耳打ちをしてきた。
「
信乃は
武家の出の信乃の父ですら
新政府による資産没収を経てもなおこのような大屋敷に住んでいるからには余程のお家柄なのだろう。
「寿太郎君の挨拶は……お互いよく知っているようだし、よいだろう」
隣に座る寿太郎が俺も挨拶したいなどと文句を垂れるのを無視して、信乃は椅子に座ったまま軽く会釈をした。
「深山信乃と申します――その」
信乃は今の自分をどう紹介いいか分からず言葉に詰まった。
しかし翁は目尻を下げて嬉しそうに頷いた。
玄関ホールでもそうだったが、翁の信乃をどこか遠く懐かしい物を見るような表情は、見知らぬ人間に対するものではない。
あまり積極的に関わりたくはないが理由を聞くくらいなら問題ないだろう。それに自然な流れで聞き出すには今この機会しかない。
「――あの。どこかでお会いしましたでしょうか?」
「おや、覚えていないのかね。まあ、たった一度会ったきりだ。それにあの時、君はずっと機嫌が悪かったからね」
信乃は首を捻った。そもそもこんな大邸宅に住むようなお大尽と会った記憶はない。
「なんだ信乃先生、知り合いだったの」
「いえ、知り合いでは――」
記憶をひっくり返し始めた信乃を翁は遮った。
「その話はまた後ほどで良いだろう。今日は寿太郎君に昨今の欧州画廊での時流を聞きたいと思っていた所でね。どうだろう、絵のことなら深山君も聞きたいのではないかね?」
一瞬、信乃は戸惑った。自分は一言も画家だとは言っていない。もしかして過去に出会ったという時のことと関係しているのだろうか。
だがここは単純に考えて、翁は画廊の息子である寿太郎に合わせた話題を出しただけだろう。下手に勘ぐってこちらから
「西洋画は珍しいですし興味はありますね」
信乃の当たり障りのない答えに翁は先ほどと同じように頷いた。
「それは良かった。では、珈琲が冷めぬうちに
即席サロンは終始寿太郎の独演会だった。そのお陰で信乃は余計な事を言わずに済んだとも言える。
とても興味深い内容だったが、信乃はそのほとんどを覚えていなかった。内容よりも時間の経過の方に気を取られていたからだ。
信乃の様子に気付いた翁が言った。
「深山君はこの後、何か用事でもあるのかね」
「ご気分を害されたのなら申し訳ありません。買い物ついでに寄っただけですから、帰宅時間を家の者に告げていませんもので」
「そうかね。それは申し訳ないことをした。何か入り用な物があれば飯塚に持ってこさせよう。話に付き合ってもらった礼だ」
翁の申し出に信乃が面食らっていると、寿太郎がチョコがけのフランスパンを珈琲に浸しながら言った。
「先生は絵の具を買いに行くんだってさ。俺も後で一緒に行く予定」
「何を勝手に決めているんですか。付いてこなくていいと言ったでしょう」
翁は何が楽しいのか何度も頷いている。
「素晴らしい。深山君がまだ絵を描いていたとは。そうだ、これは提案なんだがね、微力ながら支援をさせてもらえないだろうか」
翁の申し出に寿太郎の方が先に驚きの声を上げた。
「すごいぞ先生、翁は誰のパトロンにもならないって親父が言ってたのに!」
寿太郎の手に持っていたパンが千切れてぼとりとカップに落ちる。
信乃の方はその内容よりも翁の言葉に引っかっていた。
またも翁は「深山君が」と言った。今度は「まだ」ともだ。そうすると先ほどの翁の問いかけも意図的な物に思えてくる。
そういえば自己紹介の時、長たらしい名前の方に気を取られてしまっていたが翁は東城と名乗らなかっただろうか。
よくある名字ではある。だが、翁は美術界に詳しい人間のようだし、当然、
信乃はカップを置いて翁に体を向けると慎重に話を切り出した。
「とてもありがたいお話ですが、そのお申し出はお受け致しかねます」
「なぜだね? 悪い話ではなかろう」
「そこまでして頂く理由がありませんので」
ここまで食い下がられるとさすがに疑いの目を向けざるを得ない。
信乃がどうにかして断ろうと内心で焦っていると、寿太郎がのんびりした声で言った。
「翁、信乃先生の家っていうか
信乃は思わず寿太郎を振り返った。あまりの内容に理解が追いつかず、自分の口から間抜けな声が聞こえてきたのはその後だった。
「――は!?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます