第21話 カステイラ
その間も寿太郎は近県の画廊に足を伸ばしたり、少しでもそれらしい情報があれば民家にも出向いた。
しかし、贋作の情報はおろか作品の手がかりすら見つからなかった。自分の探している絵の事も合わせて訊ねて回っていたため、非常に効率が悪い。
忙しくしていれば多少気も紛れたので、それだけは有り難かった。
依頼された仕事は目覚ましい進展もなく
寿太郎は大きな藤のバスケットを膝に乗せ、
ホームから吐き出される乗客と、リズミカルに
それらしき人影も現れないまま、待合室横にある壁掛式の両面時計は正午を迎えようとしていた。待ち合わせの時間を正午にした理由は、単純に書きやすい数字が0だっただけだ。
「待てよ。まさか深夜だと思ってないよな」
寿太郎が本当の事情を話した時、信乃の怒りは収まっているように見えた。だから一か八かで時間と場所だけを書いて渡したのだ。
あの日の記憶を掬い上げては潰しを繰り返していると、ますます思考は沈んでいった。
そう言えばあの時、信乃が言いかけた言葉はなんだったのか。
――いやいや、それも来てくれないと意味ないし。
自問自答を繰り返すたびに不安の粘度は増し、時計の針は進むほどに元から釣り合っていない天秤がますます失望側へ傾いていく。
いっそ内務卿には無難な報告でお茶を濁して、やれるだけやったと自分を納得させて本国に帰ってもいいのではないか。
思えば自分はいつもそうだ。大口を叩いて大騒ぎする割に、やらせてみれば中途半端で、何一つまともに終わらせたことがない。
「まあ、今更取り繕うだけの評価も残ってないしな」
寿太郎は駅員に追い払われるまで待合室に居座り続けようと意気込んでいたが、時計の針が真上で重なる頃にはもう時刻を確認する気も起きなかった。
正午の鐘が鳴った。
――そりゃ、来ないよな。
知らず力が入っていた肩を意識的に下げると、寿太郎はベンチに背を預けて目を閉じる。
依頼内容を聞かせて判断を信乃に押し付け、更に先に謝ることで感情すら丸投げにしてしまった。
あんなことをしておいて、文句を言われるだけで済むとは思ってはいなかったが、さすがに一目くらいは会えるのではないかと淡い期待を抱いていた。
どこまでも自分に都合のいい考えだ。そんな己に腹が立ったが、信乃はそれ以上だったのだろう。
現に信乃は来なかったのだから。
だが今、寿太郎はいっそ晴れやかな気分だった。
正直であることは美徳だが社会では無用だと父親にも散々言われてきた。この仕事も腹芸を学べという意味だったのだろう。
――そんな器用なことができりゃ、あの時も今ももっと上手く立ち回れたっての。
これ以上、信乃の周囲を嗅ぎ回ったり隠し事をしてまで腹芸など覚えたくもない。残りの時間は絵を探すことだけに集中すればいい。
「あー、でももう信乃先生に会えないのはちょっとやだな。お前にも紹介してやりたかったしな」
寿太郎はお前とももうすぐお別れだなと小声で言うと子犬の鼻先を突くと、子犬は短い舌で寿太郎の指を舐めた。
「今からでも遅くないと思いますよ」
濃い渋茶色の鼻緒と黒足袋が目に入った。寿太郎がバスケットを脇に避けて立ち上がると、傾いだ籠からキャンと高い鳴き声が上がった。
「なんで先生がここに!?」
「呼び出した君がどうして驚くんですか。時間に遅れたのは謝ります。家を出るのに手間取ってしまって」
「そ、そうだよ! 出てきても大丈夫だったのか?」
いくら楽観的な寿太郎でもあの状況では次に信乃と会うことは絶望的だと思っていた。だが、もし来られないとしても、何かときっちりしている信乃ならば、電信の一つくらいなんとかしてでも寄越してくるとも思っていた。
そして、信乃が一切の連絡をしてこないのは、とても不都合な事がおこったのだろうと。だからこそ一切の連絡もなしに現れた信乃に、寿太郎は尋常でなく驚いた。
「私だって子どもじゃないので多少の融通はきかせられます」
信乃は
――あ、絶対この前に言ったこと根に持ってるな。
「その……用事があって神田方面に行くつもりでしたから。少し足を伸ばすくらい問題ないので寄ってみただけです」
仏頂面で言っているが先ほど信乃は自分で「遅れてすみません」と言ったのを忘れているのだろう。
「それならちょっと戻るけど先に神田に行く? 俺も神保町界隈はまだ行ったことがないし古本なら一緒に――」
「いえ、古書ではなく絵の具です。少し特殊なものですから帰りに一人で行きます。犬を連れて店には入れませんから」
子犬は自分の事を言われたと思ったのかバスケットの隙間から鼻先を突き出して不満げに一声鳴いた。
「まあ食べ物屋じゃなくても犬は連れて行かないほうがいいよな。絵の具だったっけ、先生は今どんな絵を描いて――」
「その子犬、うちに連れてこなくて良かったです。
信乃が質問に答えなかったのはこれが初めてではなかったが、意図的に話題を切られて寿太郎は眉を顰めた。
「そ、それは良かった。こら籠から顔を出すなって」
どうしても人の会話に混じりたいのか、子犬はとうとうバスケットから顔を出し、紹介しろと言わんばかりに鼻をひくつかせた。信乃は中の子犬を持ち上げて腕に抱えた。
「高村君」
「え? 何だよ先生、改まってさ。寿太郎でいいよ寿太郎で。どうかした?」
「――あの、ですね」
寿太郎は足元を見つめたっきり黙り込んでしまった信乃の顔を覗き込む。
「いえ、大丈夫です」
寿太郎は言いかけて止めた信乃の背後に一枚の張り紙を見つけた。
駅の掲示板に貼られた家畜予防接種の呼びかけの張り紙を指差す。
「ああ、すっかり忘れてた! 先生、悪いんだけどさ、先にこいつの登録をしに行きたいんだ。一緒に行ってくれないかな」
「予防接種ですか? 私はすぐに帰る予定で――」
信乃は眉根を揉んで言う。
「またお役人と揉めるのは御免です。が、君を一人で行かせたらお役人の方が可哀想です」
「やった!」
喜ぶ寿太郎に信乃が釘を刺した。
「それよりもあなた、このメモはなんですか。駅って……こんな雑な書き方で呼び出される私の身にもなってください。しかも蘭語で!」
早速のお小言に寿太郎は身を縮めると、信乃は焦げたキャラメル色の子犬の額を撫でながら言った。
――犬のことはいいんだ。
扱いが子犬以下に転落し、最早それ以下はなさそうなので、寿太郎はいっそ開き直ることにした。
「咄嗟の事だったから慣れた字の方が速かったんだ。ほら暗号だと思えばいいだろ。先生だって
「私が読めないかもしれないとは思わなかったのですか」
「でも、ちゃんと来てくれた」
「ほんと口の減らない。警官たちが辟易するわけです」
そっぽを向いた信乃に、寿太郎はいじけるようにつま先で床を払う。
「本当にごめん。俺こんなだからさ、向こうでも友達とかあんまりいなくて、上野の公園で先生がまともに相手してくれたのが嬉しかったんだよ」
寿太郎は照れ隠しに信乃から子犬を取り上げる。抵抗する子犬の鼻先をそっと押して籠の中に戻した。
「家に行ったのも先生ともっと話がしたかったんだ」
「どうしてそれを先に言わないんですか!」
大喝に等しい声で言った信乃に寿太郎は目を丸くした。
改札から出てきた乗客が一瞬こちらを見てそそくさと走って行く。言い放った当の本人はくるりと寿太郎に背を向けると大股で歩き出した。
「待って信乃先生、どこに行くんだよ」
「予防接種に行くのでしょう?」
振り向かずに答えた信乃の耳先が少し赤いのを見え、寿太郎は慌ててバスケットを抱えると後を追う。
――もしかして俺は可哀想な子認定されてしまったのだろうか。
どうやら寿太郎の発言は、元教師の矜持をいたく傷つけてしまったらしい。
信乃は掲示板を指差しながら切符切りの駅員に何かを尋ねていた。戻ってくるともう既に普段通りで「電車で行くのは難しそうです」と言った。
「ここから近い役場は二つだそうですよ。東京電気線に乗り換えて田安門近くの農商務省の分所に行くか、
「どっちも遠いなあ」
「しかも動物輸送に専用の箱がいるようですよ」
先日公布された鉄道省令で家畜輸送には鍵付きの箱が必要になったらしい。別途輸送運賃もかかるというのだ。
困っていると、別の駅員がこの先の
駅員の言う通りに道なりに歩いて行くと、その家畜病院はすぐに見つかった。窓口で受付票を記入する段になり、代筆をしていた信乃が寿太郎に尋ねてきた。
「そう言えば、この子犬の名前はなんです?」
「名前?
「ホンド――ああ
「日本語でいいのが思いつかなくてさ。俺が帰った後も屋敷のみんなに可愛がってもらえるような名前がいいんだけどな」
「教科書や紙芝居では大抵ポチですが、もう少し捻りがあった方がいいですね」
信乃は子犬の柔らかな腹を撫でている。
「それにしてもこの色合い、なんだかカステイラを思い出しますね」
確かに子犬は背中は濃い茶色、腹側は明るい卵色をしている。
寿太郎は信乃の持っていた鉛筆をひょいと取り上げると用紙にカタカナで「カステラ」と殴り書いた。
「あっ、何を考えてるんですか! もっと考えてからでないと」
「呼びやすくていいと思うぞ。信乃先生に名前付けてもらって良かったよな、カステラ!」
カステラはこれから始まる事を分かっているのかいないのか、籠の縁に首をのせて嬉しそうに鳴いた。
案の定、カステラが大騒した診察を終え、接種証明書を貰うと寿太郎の下宿へと向かった。
「証明書は役所に持って行かなくていいんですか」
「俺が行くとまたややこしくなるから、執事さんに行ってもらうことにするよ」
「賢明な判断ですね」
寿太郎は籠の中で拗ねている子犬の首輪に引き綱を付けると、頑張ったご褒美に籠から出してやった。
数時間ぶりに解放された子犬は青空を映した水たまりをばしゃばしゃと跳ねるように走っていく。
「ちょっと待て、走るなカステラ! うおっ、水が口にっ」
「もっと走っていいぞカステラ!」
「先生、焚き付けないでくれ!」
笑い声が聞こえ、肩越しに振り向くと信乃が手を上げている。あれこれと悩んでいた自分が馬鹿らしくなってきた。
信乃に事情を話さない選択肢など、自分の中にはこれっぽっちもなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます