第3話 菊地 陽葵②
五時を過ぎてもまだ明るい、陽葵は暑いのは苦手だが夏は好きだった。夜が短いから。夜の闇は死を連想させる、特に澄んだ空気の真冬の夜空は見ているだけで吸い込まれてしまうような錯覚を覚えた。
学校から自宅までは快速電車なら五駅。どの時間帯に乗っても混雑しているので通学するだけで一苦労、その上痴漢が多発する事で有名なこの車両は、陽葵のような一見おとなしそうな女子高生にはこの上ない苦行だった。とは言え自転車で通えるような距離でもないので我慢するしかない。
車内は多少混んではいるものの、朝のラッシュ時に比べれば大分ましだった。からだを滑り込ませて車両の中に入っていく、吊り革を掴むと目の前には赤ん坊を抱いた若いお母さんが座っている。赤ん坊は陽葵と目があうと不思議そうにぽかーんと口を開けた。愛おしそうに我が子を撫でる母親を見て、胸の中にある小さな何かがズキンと痛んだ。
車窓には都会の街並みが通り過ぎていく、夕焼け雲の後ろには闇が迫ってきていた。できれば暗くなる前に家に帰りたい、そんな事を考えているとうっすらと自分を映し出す窓にサラリーマン風の男が見えた。陽葵の右斜め後ろ、いつの間にかそのポジションにいたその男の表情までは読み取れない。
コイツやる気だ――。
散々痴漢にあっていれば大体やる奴は分かってくる、絶妙なポジショニング、気配の消し方、只者じゃない。常習犯だ。案の定、電車の揺れに合わせて手の甲を陽葵の尻に当ててきた、まずは様子見。コチラがなにも抵抗しなければガッツリ手のひらで揉む算段だろう。
しかし、陽葵は触られて大人しくしているような淑やかな女じゃなかった。今までに警察に突き出した痴漢は一人や二人じゃない。
まずは手のひらで触ってくるのを待つ、手の甲だと偶然だの、そんなつもりは無かっただの。挙句の果てには名誉毀損だと開き直る強者もいる。陽葵は怯える女子高生よろしく、体を小さくして震わせた。
しかし、男っていうのは女の尻など触って何が楽しいのだろう。リスクの割にリターンが少な過ぎないか。馬鹿なのだろうか? まあ少なくとも賢い人間が痴漢することはないだろうが。ぼうっとあれこれ考えている内に痴漢はエスカレート、スカートの中に手を入れようとした所で陽葵は振り向いた。
「ちょ――」
「ややや、やめたほうが良いですよ、ここ、こんな事、卑怯ですよ」
陽葵の真後ろにいた根暗そうな男子校生が、声を震わせながら痴漢男の手を掴んでいた。痴漢男は表情を変えずに言い返す。
「君、なにを根拠にそんな事言うんだ、名誉毀損で訴えようか?」
なかなか図々しい男だが男の子は掴んでいた手を離して下を向いてしまった、小刻みに震えている。
「君が触ってたんじゃないのか? ええ、どうなんだ」
ここまでくると見事だ、車内がざわつき始めると痴漢男は鼻を鳴らして電車を降りようとした。
「待て待ておっさん」
その腕を今度は陽葵がつかむ、シレッと逃がしてたまるか。
「ずっと触ってましたよね、バレてますよ」
今度は流石に焦りの色が見えた。
「はあ、証拠あるのかよ、証拠、訴えるぞ!」
「繊維片の微物検査すれば出てきますよ」
近年では冤罪防止のために痴漢は手のひらについた繊維片を検査される、鉄道警察に聞いた知識だ。手のひらに陽葵のスカートの繊維が残っていれば黒、なければ白。とうぜんコイツの手のひらにはびっしりと付着しているに違いない。
「は、はああ、そんなの証拠に――」
「次の駅で降りようかおじさん」
いつの間にか現れた体格の良いお兄さんが、痴漢男の腕をガッツリ掴んで逃さないようにしている。どうやら観念したようで暴れる様子もなかった。
結局、陽葵も事情聴取される羽目になり解放された頃には夜の帳が下りていた。助けてくれた男の子はいつの間にかいなくなり礼をする暇もなかった。
帰りが遅くなった理由を親に説明する事を考えると気持ちが滅入ったが帰る家は他にない、空を見上げるとまんまるの月が煌々と輝いていた。深呼吸を一つしてから陽葵は家に向かって歩き出した。
「痴漢?」
陽葵の母、雪子は煮物に箸をつけたところでピタリと手が止まった、眉間に皺をよせて視線を陽葵から父の隆文に送ると深いため息をついた。
「いやらしい格好してるからよ、ねえ? お父さん」
雪子は隆文に同意を求めたが、隆文は「ん、ああ」と興味なさそうにビールを飲みながらテレビを見ている。
菊地家では夕食時に、父親が晩酌する横で陽葵と母がご飯を食べながら会話するのが日課だった。小さな頃、小学校を卒業する頃までは明るい会話の飛び交う楽しい食卓だったはずが、今では重苦しい空気が支配する苦痛な時間になっていた。全ての原因は自分のせいだと陽葵は感じていたが、分かったからといって解決できる問題でもなかった。
「いやらしいって、学校の制服なんだけど」
わずかな抵抗がつい口を出た。
「あんなにスカートの丈を短くして、あれじゃあ痴漢してくださいって言ってるようなものでしょ」
確かにほんの少し、膝が出るくらいの短さにはしているが他の子に比べれば、特に愛菜にくらべたら全然長い。校内でも優等生の部類に入る制服の着こなしだったが陽葵はそれ以上なにも言わなかった。
「ごめんなさい」
煮物に焼き魚、陽葵の苦手なおかずを無理やり胃に押しこんだ。昔は大好きな洋食が並ぶ事が多かった食卓に和食が並び始めたのと、両親の陽葵に対する振る舞いが変化したのはちょうど同じ頃。胸が膨らみ、腰がくびれ始めた陽葵を見る目が変わったのは父が先だった。
家ではTシャツに短パンとラフな格好で過ごしていたが、ある時からねっとりとした視線を感じるようになる、それは時々学校や外でも感じる、爪先から頭までを舐めるように見られているのと同じ感覚だった。
父が自分のことを性的な対象として見ている事に気がつくのにあまり時間はかからなかった。真夏の深夜、ベットで寝ていた陽葵はタオルケットを剥いでいた、捲れたシャツからはお腹が出ていて、短パンからは細い足が伸びていた。人の気配がして目を覚ましても怖くて目を開けることができない。その気配は何をするでもなく、ただそこにいた。多少呼吸が荒くなると五分もしないで立ち上がった、入り口に向かう気配を薄目で確認すると確かに父の背中だった。
毎日じゃない、週に一度か二度。陽葵のベットの傍で佇む父、時折り手や髪に触れる事もあったが陽葵は静かに時間が過ぎるのを待った。
母が父の行動を知っているのかは分からない、しかしその頃から、母が陽葵を見る目は娘のそれではなくなった。
理不尽だとも思わない、捨て子だった陽葵を何不自由なく育ててくれた両親には感謝しかない。むしろ自分のせいで彼らが不仲になることの方が怖かった。
「ごちそうさま」
逃げるように自分の部屋に戻るとベットに体を投げ出してスマートフォンを操作する。Twitterで『自殺』と検索してみるが特に目新しい情報もなかった。死を何よりも恐れる陽葵にとって自ら命を絶つ自殺は考えられない事だったが、日本だけでも一日平均六十人近くの人間が自殺している、その心境はどんなものなのか、その中に恐怖を克服するヒントがあるような気がした。
『三千世界』
その字面になんとなく目が止まってスクロールしていた指が止まる。
『今の世界に絶望している人、自殺を考えている人、不治の病を抱えている人。西暦三千年の世界で生きてみませんか?』
くだらなっ、と思いつつ貼られたリンクをタップすると、思ったよりまともなホームページに繋がった。
『千年後の世界はあらゆる悩みが解消された究極の未来です。病気、人間関係、夢、希望、すべては思いのまま。死ぬことも、老いることもない世界で永遠に生きてみませんか?』
ふんっ、と陽葵は鼻を鳴らした。新手の宗教かなにかの勧誘だろうか。最近は強引な金品の要求が問題になり散々叩かれているのに、懲りずに活動している団体があるということはそれだけメリット、つまりは儲けがあるのだろう。そもそも千年も先までどうやって行くのだ、まさかタイムマシーンでも所有しているのか。
「しょーもな」
今度は口に出してスマートフォンの画面を閉じると、そのまま目を閉じた。お風呂に入りたいが最近は両親が入った後にしている。
死ぬことも、老いることもない世界で永遠に生きてみませんか――。
その言葉が頭から離れずに、そんな世界をつい想像してしまう。満腹中枢の刺激と幸せな想像に眠気が襲ってくる。あらがう陽葵をよそにまぶたは重力を持ったように重くなり、次第に閉じていった。
こうして陽葵の退屈な一日が今日も終わる。
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