Gender
yokamite
Sexism
"SOGIE"や"LGBTQ+"といった言葉に聞き覚えはあるだろうか。世界中の人々の繋がりが緊密化した昨今において、私たちはこの狭い地球に住まう同居人として、ちょっと変わった隣人への配慮が求められる。
私たち人間はこの世に生を受けたその時から、生物学的に「性」という役割が割り当てられている。ただ、これまでの人間社会においては、その「性」には男性・女性という2種類のみが存在していると考えられており、生命誕生の瞬間、生まれ落ちた赤子にどちらの性器が身体に備わっているかという可視化された基準のみを以て判断されていた。
──何千、何万、何百万にもわたる長い歴史の中で、人類が間違いに気付いたのはごく最近の話だ。
実は「性」の種類は2種類どころか、様々な基準によって複雑多岐に枝分かれするものだった。例えば「性自認」と言われる所謂心の性、「性的指向」と言われる所謂恋愛対象となる性、「性表現」と言われる自己表現の方法、そのどれもが人それぞれで、組み合わせは千差万別だ。場合によっては、生物学的には男性器が付いているから男性と見做されるけれど、性自認は女性、でも性的指向は女性で、性表現は男性らしいという複雑な事情を抱えた人も、この世界のどこかに存在しているかもしれない。
そんな人間の「性」にまつわる要素が男性・女性のどちらかに一致していないという、所謂"LGBTQ+"と呼ばれる当事者たちは10人に1人は存在していると言われている。マイノリティだなんだと言われても、絶対数として無視できないほどの人数が男女の単純な枠組みに当てはまらないという現況があるのだ。
そんな彼らに対して、人類は歴史的に差別や迫害といった悪しき風習を繰り返してきた。だが誰もが言いたいことを口に出して性的少数者に対する不当な扱いに抗議することができるようになった現代においては、人類がこれまで犯してきた過ちの反動から、性の多様性へ過剰な配慮が求められるようになった。
「過剰な配慮」とはどういうことだろうか。その最たる例は風呂やトイレ、スポーツといった「性」の身体的要素が密接に関係する場面である。例えば公衆浴場において、「私の見た目は男性ですが、心は女性なので女湯に入りたいです」と主張する人が現れた場合、貴方はどのように対応すれば良いだろうか。トイレにおいても同様だ。「私は女性の身体ですが、心は男性だから男性用トイレを案内してください」と言われた場合、貴方は素直に男性用トイレの場所を教えることができるだろうか。
最も重大な問題はスポーツにおける平等だろう。生物学的に男性と女性の間には明確な身体構造上の差異が存在する。遺伝子情報やホルモンバランスに起因するそれによって男性は身長や筋肉が増えやすいという一方、女性は柔軟な身体操作が可能で芸術性を争うスポーツに有利だ。従って、これまでのスポーツ界では当然に男性は男性、女性は女性として区別してスポーツを楽しみ、競技大会や練習の場面においても男女が交わることは決してなかった。
それがどうだろう。性の多様性が認識された今日のスポーツ界は揺れに揺れている。身体構造は男性であるため高い身長と筋骨隆々とした逞しい身体の人間が「私の性自認は女性だから、女性と競わせてください」と言って女性の大会に出場するなど、聞き手によっては違和感を感じるような事例も散見される。
これらを前時代的な男女観に基づいて拒否すれば「差別だ」と糾弾されるのだろうが、それは本当に差別なのだろうか。身体と心の性が一致していない人々に配慮するため、以上のような場面ではどのような対応をすれば良いのだろうか。その人の主張を全面的に信用して言いなりになるか?その人が性転換手術をすれば良いのか?どのような場合にも認めるべきではないのか?
──私たちは今一度、「性」について考えてみる必要があるのかもしれない...。
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