クマは黙して語る
四葉みつ
第1話 クマは黙して語る・1
長い歩道橋の上で、私はソレと
今にも泣き出しそうな空模様、犬探しを切り上げて事務所——私、
眼下には幾筋もの鉄道の線路が敷かれ、数分おきに8両編成の長い車両がガタゴトとせわしなく走り去っていく。その線路の上にかかった長い歩道橋を進んだちょうど真ん中あたりに、ソレはちょこんと置いてあったのだ。
それも隅ではなく道のど真ん中に座っている。そのつぶらな瞳がまっすぐに見上げてきて、私は思わず足を止めた。
手触りのよさそうなクマのぬいぐるみ。
いわゆるテディベアというやつだ。布を縫い合わせただけの簡単なものではなく、柔らかいモヘアの素材を使ったもののようだ。ぬいぐるみのことはあまり詳しくはないが、そこそこ値の張る代物だろう。
「こんなものが、なぜ」
こんなところに?
私は足元のクマから目を離すと進行方向を見据えた。
向こうに見える歩道橋の終わり、いやその先まで誰一人として見えない。
そもそもこの先は駅員たちの独身寮しかないのだ。住宅街に抜ける小道はあるものの、途中の階段が急すぎて子供の遊び場にしかならない。それに最近この真下に地下道が作られたのだ。広くて明るく、道の両側には小売店が並んでいる。人の流れはそちらにすっかり移行してしまった。
くるりと振り返って今来た道を見ても誰もいない。歩道橋を降りればすぐに駅があるのだが、この長い階段を嬉々として昇ってくるのは撮り鉄くらいなものだろう。私が今しがた昇ってくるときもすれ違って降りてくる人は一人もいなかった。
労力をかけたところで得られるものがない橋、それがこの歩道橋だ。建設された昭和40年代当初は大いに活用されたのだろうが、今では街の造りも人の流れも変わってしまった。この歩道橋もそのうち取り壊されるかもしれない。
すぐ傍の駅のホームには沢山の人が見えるのに、まるでこの橋の上だけ世界から切り取られたようにずっと置き去りだ。ただ、その不思議な感覚が個人的には好きだった。
生きていることさえどうでもよくなってくる。
それから私はハッとして、歩道橋から慌てて真下を覗き見た。
しかし数メートル下の線路にはこれといった痕跡はなかった。疲れた顔をした人たちを乗せた無機質な箱が通り過ぎていくだけだ。
「……死体はないようだな」
事件や事故が起こったわけではないようで、一旦は胸をなで下ろす。
ならば、誰がなぜこんなことをしているのか。
置き忘れたようには見えない。なにせ往来のど真ん中に鎮座しているのだ。何らかの意図があることは推察できる。
子供のいたずらにしては扱う素材が高級すぎる。いや、子供だからこそ価値を理解できていない可能性もある。しかし微塵も汚れていないところを見ると、これの持ち主は扱いが分からない人物ではないようだ。
それでは持ち主を探しだして届けてあげよう——というほど私はお人好しでもなかった。
探偵は慈善事業ではないのだ。給金が発生しないものを進んで担う余裕はない。
それに判断材料が少なすぎる。
もう少し手がかりがあれば多少くらいは持ち主を探すのもやぶさかではないが、クマのぬいぐるみだけではどうしようもない。
「せめてお前が人の言葉を話せればな」
クマに語りかけたところで返事をしてくれるわけでもない。きっと持ち主からメッセージを託されているだろうに、口も動かせないのだから
私はついにそれを抱き上げた。
ふわりとした手触りは猫を抱えたときのような感覚を思わせる。上から下からくるりとひとまわり確認してみたが、本当に綺麗なものだ。地面に置いたときに付いたであろう土が少し付いているくらいだ。ぽんぽんと数回払うと、それらは素直に落ちていった。
ぬいぐるみの左耳におしゃれなタグが付いている。メーカーと数字が表記されているが、数字はおそらくシリアルナンバーだろう。
そのタグの端の方に切り込みが入っていた。王冠のような形をしている。
「王冠……王族……」
いやまさか。そもそも日本は王制ではない。
どこかの国の王族がここへやってきてクマを置いて去って行ったか。そんな突拍子もないことが起こる確率はいかほどか。
万が一、何かの取引にこのクマが使われているかもしれない。ぬいぐるみの腹をかっさばくと中から何か出てくる、というシーンをドラマで見たことがある。
中になにか入ってはいないかと試しに腹部を探ってみたが、ふわふわとした綿の感触しか伝わってこない。うん、いい弾力。
確かに取引の材料を道の真ん中に置き去りじゃあ、いくらなんでも不用心すぎるなと私はうなずく。
手元のクマを眺めながら彼の背景ストーリーを考えていたところで、ほほに何かがぽつりと当たった。
雨だ。
私は持っていたクマをコートの陰に覆うと、前と後ろを交互に見やってどちらに進むか天秤にかける。それから今来た道を慌てて引き返した。
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