春と道化

伊富魚

第1話

 僕は阿呆が嫌いです。阿呆という方が、阿呆なのである、という貴君の声が届きましたが、ご尤も。阿呆は僕の綽名に違いない。とはいえ悲観しているわけでもないのです。阿呆とはすなわち正直者でもありますゆえ、それは僕の目指すところでもございます。それゆえしばし、貴君の寛大な御心に甘え、この阿呆のお話をさせていただきます。どうか最後までお付き合いください。これは僕が、京都は出町柳にて、のそのそとその生を謳歌していた時分の話。


 出町柳駅から少し西に向かうと、高瀬川と賀茂川がぶつかりできる鴨川が悠々と流れ、その北側には下鴨神社を宿す糺の森が、緑を茂らせさわさわしている。ここは大変住みよい街なのである。僕は今日もまた、鴨川沿いの土手を等間隔に並ぶカップルを横目にのらりくらりと歩いていた。外見は中肉、顔はそこそこ、白の薄めのニットの上に紺のワンピースを重ねた近所の大学に通う清廉な女学生を装っているが、その実は小心者のたぬきである。どうして人間に化けているのかと聞かれても、他にやることがないからとしか答えようもなく、人間様は近頃特にお忙しくされているご様子で、知らぬ人から話しかけられることもなくなったゆえ、こうして堂々と女子大生に化けてぶらぶらと歩けるのであった。

 生まれてこの方この街から出たことがない僕であるから、洛内に住む人間のことしか知らぬのだけれども、どうも人間というものは阿呆なのではなかろうかと、若輩ながらちらちらと思うようになっている。なぜかって、あなた、落ち着きもせず、いつもあたふたしているではないですか。この世に生まれてきたが最後、他意なく夕日を眺めることもなく、木々と触れ合うこともないまま、ぼうとすることさえできないなんて、僕には到底我慢できぬ人生、いえ、タヌキセイである。あなた方にはそんな毎日は少々退屈なのでしょうか、我らたぬきはそれだけで阿呆みたいに心までぬくぬくしてしまう。どちらが阿呆か。更に見たところあなたたちは、我らの十分の一の時間も生きられぬのでしょう。だのに今日も健気にあたふたするあなた方を見ていると、なんだかきゅんと切なくなってくる。いや、ぶんを弁えねばならぬ。たかがたぬきの愚考として、決して間に受けませぬように。

 御苑の梅がぽつぽつと小さな花弁を開きはじめ、その香りをスンスンと嗅いで酒を飲むのが毎日の至上の楽しみであった三月の初め、僕はいつものように可憐な女子大生に扮して、今更ながら一人梅を見ながら酒を飲む女子大生というのは何とも乙である、梅の木の並ぶ芝庭に向かった。僕は白梅が好きだ。紅梅も嫌いではないのだけれど、匂いが少しはっきりし過ぎている。それに比べて白梅は、ふわふわとした春の雲のような曖昧な香りで、一度嗅ぐと、僕などたちまち夢見心地になってしまう。だから今日も、お気に入りの白梅の前に腰を下ろして酒を飲もうと白梅の元へ向かったのだけれど、その日はいつもと違っていた。先客がいたのである。その人は、僕がいつも座るのと同じようにして、目の前の白梅をぼんやりと眺めていた。顔は見えないが、短く揃えられた艶のある後ろ髪である。僕が近づく足音に気がついたのか、彼女はぱっと身体を捻って僕を見た。彼女のまるっとした黒い目がじいっと僕を見つめ、いささか狼狽えたけれど、化けが解けないよう必死にお尻に力を入れ堪えた。

「きれいな梅でしょう」彼女は頬を緩めて僕に笑いかけてきた。屈託のない顔である。

「あなたも一緒に見ませんか」

「あの、ええと」白状しましょう。僕は人間と話すことに慣れていません。日頃人間の愚行について、あれやこれやと大それたことを独りごちていますけれども、こうしていざ目の前にすると、己の尻尾がポンと出てしまいやしないか、そのことばかりが気にかかってお話どころではないのです。ええ、そうなのです。だから僕はその時ももじもじしておりました。

「誰かと見た方が楽しいもの」すると彼女はそう言って手招くので、

「それなら、お邪魔します」と僕は、彼女の隣に腰を下ろして一緒に白梅を見ながらちびちび持参した酒を飲んだ。少し躊躇いながら彼女にもすすめてみると一杯だけね、と僕の手から盃を奪ってぐいと飲み干した。そしてかかと楽しそうに笑った。

 木下春は、その日僕の、友達になったのである。


 春は今年の春から大学に通う為、地元の信州から京都に越してきたところだった。何でも近所にある某大学の文学部に合格したそうである。僕は大学生という種類の人間のほうけた顔を見ていると、やはりイライラとしてくるのですけれど、実際僕もその一人に化けて生きてみると、やはり頭の中がぼうとしてきてしまうのですから、単純に阿呆と断言することも難しく、もしやこれは大学生という哀れな期間にのみ棲みつく蟲の仕業なのだろうか、だとしたら極めて厄介である、などと僕は空想の中でぷかぷかしながら、最近は春が大股で大学の正門をくぐっていくのを見送った後、またぶらぶらと酒を飲みに鴨川へと出掛けていくのでした。僕は大学生の格好をしていながら、その毎日は明らかに浮浪のそれであることは重々承知しているのだけれど、一介のたぬきが、人間のあんなに沢山集まる場所にでんと腰を据えて勉学に励む姿態を想像するだけでも、苦笑する他ない。

 春は毎日の出来事を僕に会うたびに話すのだけれど、どうやら彼女はいささかものを知らぬようである。田舎から出てきたからか、改札の通り方や電子マネーの使い方、先輩方とのお付き合いなど、今となっては我々たぬき界隈ですら周知であることも知らぬようであった。スマホもこちらに出てくる時はじめて手にしたそうなのである。

「春、僕はあなたがちょっと心配だ」

「そう?八菜ちゃんよりはしっかりしてると思うんだけどなあ」八菜とは僕の人間の時の名前である。本名はもちろん別にあるけれど、長く使い続けた今ではこちらの名の方が好みなのだ。

 春のような無智で純粋な人を、僕は少々疎ましく思っていた。いや、不思議に思っていた。どうして彼女は恥じないのだろう。たぬきのいうことではないかもしれないけれど、無智ならば学ばなければとあくせくするのが人間ではないか。特に彼女のように若ければ、自身の未熟をできる限り隠し、成熟せんと東奔西走するのが人間ではないか。僕は全ての人がそうであろうと思っていた。しかし彼女は恥を知らぬ。おそらく大学でも陰で馬鹿にされていることだろう。田舎者だの恥知らずだの天然だのと、事実を笑いの種にされているのだ。そして当の本人は、そのことに気づきもしないのである。ああなんと哀れな。僕がそう思っていても、ほれ見てみてください。春はこんなにも幸せそうに笑っている。ならばこのままでも良いのかも知れない。人生、いつか傷つくこともあるだろうが、その時に彼女はまた一つ大人になるということなのであろう。その頃にはもう僕はこの少々長すぎるタヌキセイを全うしているかもしれないけれど、最後まで彼女も僕もご機嫌に暮らせたなら、それだけで大変満足なのです。たぬきとはそういうものなのです。


 春に恋人ができた。名前は伊藤某という大学の同輩だそうだ。その伊藤の方から彼女に声をかけたらしいが、いわゆるナンパではなく、たまたま学内でお金がなく困っていたところ、一人ぶらぶらと歩いていた彼女を見かけて、声をかけたのだ。それから気づけば恋人のような関係になっていたのだと春はへらへらしながらいう。恋人ができるのはいいことである。彼女の世界も広がることだろう。しかしその男はいけない。明らかにいやらしい男である。まず、その出会いからして小賢しい。この薄暗い時代に、そんな文句で引っかかるものがいると思っているのか、ならばとことん阿呆である。これも人間ゆえになせる技なのだろうか。さらに彼女がそれを真に受けているから手に負えない。本当に伊藤が困りはてて、私に頼ってきたのだと思い込んでいる。純粋無垢もここまでくれば呆れてしまう。

「ねえ春、僕は君の恋愛を応援するけれど、困ったことがあったらいいなよ」僕は見守ることにした。これで彼女が少し懲りて、人を疑うことも覚えてくれたらいいと思ったのである。少なくとも伊藤はひょろひょろとした春と同じ背丈くらいの男であるし、暴力なんてことがもしあったなら、僕がコテンパンにしてやればいいのだ。

「ありがとう、けど伊藤くんいい人よ」彼女はへへと笑った。

 それから少しずつ春と会う時間が少なくなっていった。理由はもちろん伊藤である。その間の僕は、だいたいいつも鴨川デルタの先端に座って、目の前に掛かっている橋を通り過ぎる人々をぼうと眺めたり、ちびちび酒を飲んだりしていた。伊藤には一度だけ会ったことがある。春と会うときに一緒についてきたのだ。外見は何の変哲もない大学生だった。短い黒髪に眼鏡をかけて、シンプルで清潔な服装であったが、白のスニーカーだけがやけに真新しくて目に立った。

「この子は八菜っていって、私の一番の友達。大学生だけど飲んだくれ。で、こっちが伊藤くん」春はにこにこ笑っている。

「初めまして」伊藤の笑顔はいかにも嘘くさかった。僕の嫌いな顔である。春には悪いけれど、こいつは小心者の典型だ。おそらく春の前では本心などなにも言わないだろう。自分が可愛くて仕方がないのだ。少しでも身辺に綻びができると、すぐに怖くなって連絡がつかなくなるのである。最後に別れの一言も言えやしない意気地なしに違いない。僕は苦笑した。けれどすぐに、別れる前提で考えていることに気づいて、少し申し訳なく思った。

「初めまして。いい人そうでよかった」そう言うと春は見るからに上機嫌になって、伊藤についてあれやこれやと説明してくれるのだけれど、聞けば聞くほど僕には胡散臭く、伊藤本人ももじもじと気まずそうにしていた。やはりこいつはすぐに逃げ出すだろうなと僕は思った。


 あれから、伊藤と春はますます仲を深めている様子であった。僕としては少し意外ではあったのだけれど、伊藤は他の女の匂いもなく、むしろ以前よりずっと春と過ごす時間が増えたようだ。この前も一緒に京の名所を回ってきたらしい。清水寺やら、金閣寺やら。僕は糺の森以上の場所はないと思っているのだけれど、人間は昔の人間がせっせと作った建物を見て、はあと嘆息を漏らしたり、ふむと顎に手を当てながら、学のある風を装って佇むのが好きらしい。そして僕はその景を眺めて面白がるという寸法である。その頃はもう、鋭い日差しがたぬきの柔肌には厳しい季節になっていたのだけれど、春は毎日、起こることすべてに胸をわくわくと躍らせているようであって、僕は嬉しく思いながらも、多少の不安を感じていた。自分の子どもが、奔放に外で遊びまわっている時に親が感じる不安はこんな感じだろうか。親になったことがないからこの例えは正確ではないかもしれない。つい先日、七月の終わり頃だったか、春の下宿先にお邪魔した時も、春は過ぎるくらいに上機嫌であった。始終伊藤のことを上気しながら延々と話しては、時々、僕がその場にいることも忘れてふわふわしてしまったりするのである。恋する乙女とはこのようなものだったか。僕には伊藤にそんな魅力があるとは思えなかったけれど、春がこんな状態になっている。僕には分からない魅力が一つや二つはあるのかもしれない。そんなことを考えていた矢先のことだった。鴨川にかかる賀茂大橋をてくてく渡っていた時、僕は伊藤にばったり会った。

「あ、春の友達の」伊藤は僕を覚えていたようである。

「あ、伊藤さん、どうも。なにされてるんですか」

「大学からの帰りです。八菜さんは」

「僕はちょっとぶらぶら」伊藤は白のTシャツ一枚にジーンズとスニーカーだった。手にはなにも持っていなかった。僕は改めて伊藤をじっくり観察してみた。見た目にはどんな魅力も感じられない。このまま別れて数歩歩けば忘れてしまうような風体である。春はこれのなにがいいのだろう。春がいつも話す内容も、明確な魅力はほとんど言わず、なんとなくとか、分かんないけど、ともぞもぞしていたのだ。

「ちょっとお茶でもしませんか」

「え、これからですか」伊藤は少し驚いたような顔をした。

「ええ、少しだけ。伊藤さんがどんな人なのか知りたくて」

「確かに、僕らお互い全然知らないですもんね」伊藤は笑って承諾した。

 僕らは大学近くの交差点の角にある、古びた喫茶店に入った。


 窓際の席に着くと店主であろう老人が注文を取りに来た。僕はアイスココア、たぬきは甘いものには目がない、伊藤はアイスカフェオレを頼んだ。老店主は無言でお辞儀をして、カウンターへ戻っていった。他に客はおらず、老店主が先ほどまで聞いていたのであろうラジオのガサガサした音だけが店内に流れていた。なんとも気まずい空間である。老人一人と、男一人とたぬきが一匹。とことん可笑しな状況ではないか。この日本もまだ捨てたものではない。

「あのおじさん、なんかたぬきに似てません?」僕は昔から緊張している時ほどふざけてしまう癖がある。言いたくもないことをつい口にしてしまう。そして引っ込みがつかなくなって、強引に理屈をこねくり回して、自分の言ったことを正しいことにしてしまうのである。いる時にはもうすでに後悔が押し寄せてきているのだけれど、もう戻れない。僕はあの制御できない自分が恐ろしくて堪らない。

「たぬき、ですか?」伊藤はちらとカウンターの方を見る。

「ええ、なんか垂れ目で少しまるっとしてるところとか」僕はカウンターに届かないようにコソコソと話した。

「確かに言われてみれば、似てるかもしれない。京都でたぬきが出てくる小説が確かありましたよね。化けてるのかも」伊藤はお追従しているが内心笑っているに違いない。どうみても顔に出ているのである。本人は隠しているつもりらしいが、これでは気づかぬ方が愚か者。いつか自分は大物になるなどと思っていそうだ。どうも人を馬鹿にしている、いや僕はたぬきなのだけれど、馬鹿にされるのはいい気がしない。僕はたぬきなのだから。けれどそんなことは決して表に出さずに、内緒の小話を楽しんでいるように振る舞ってしまうのが、小心者の小心者たる所以なのは言うまでもない。

 たぬき店主がアイスココアとカフェオレを持ってきた。ちなみにこの老人は本物のたぬきではない。事実、洛内には幾万のたぬきが住んでいて、殊に化けるのが得意なたぬきは、人間としての生活を阿呆みたいに楽しんでいたりする。僕は化けるのがそれほど得意ではないから、こうして大学生としての淋しい生活を送っているのだ。しかしそろそろ僕も、働くということを覚えなければならない。生活するということは、尊敬すべきことであると、最近思うようになってきたのである。僕は実は真面目なのだ。

 さて、なんの話をしようか。誘ったからには何か盛り上げなくては。僕はそういうところにだけ責任を感じる。心臓の小さいたぬきなのである。僕は目の前に置かれたココアを見つめて、ストローでくるくるかき混ぜながら、必死に話題を探していた。冷たいグラスに水滴が浮きはじめている。

「八菜さんは大学生なんですよね」先に口を開いたのは伊藤であった。彼もまた話題を探していたようである。顔が変にぎこちなくて、口元が吊り上がっている。おかしな顔に思わず噴き出しそうになったがなんとか堪えた。しかし大変助かった。僕は伊藤に初めて好感をもった。

「そうです。K大学の法学部」二、三度通って、すぐに退散してしまった大学である。人が多いのはやはり苦手だった。

「そうなんですねえ。僕はD大学の文学部なんです」

「春と同じですよね、どうやって付き合い始めたんですか」僕はわざと少しからかうような顔で質問した。

「どうやってって言われると難しいなあ。一緒の学部だから同じ講義を受けたりとかして、徐々に仲良くなっていった感じですよ。付き合ってるというか、流れでそうなったというか」

「え、でも付き合ってはいるんだよね」

「まあ、そうなのかなあ」煮え切らない男である。まずこのふにゃふにゃした態度が気に入らない。余裕のあるふうに見せてはいるが、緊張で汗がたらたら滴っている。笑ってはいるが、なんとも哀れな笑顔だ。正体を明かすまいと必死である。たぬきじゃあるまいし、中身を見せてもただの人である。大しておかしなものでもない。伊藤はそれに気づいていないのだろう。

「春と仲良くしてあげてね」僕は伊藤に少し同情した。春にはたくさん同情した。伊藤は変な顔でへへと笑った。一時間もしないで僕と伊藤は店を出た。外は強い風が吹きはじめていて、空は曇天模様である。一雨くるかもしれない。

「八菜さん、今日はありがとう。またお話ししましょう」伊藤はそういって帰っていった。僕も小走りで家に向かった。伊藤は馬鹿だけれど悪いやつではないのかもしれない。八月の終わりのことであった。


 夏が終わろうとしていた。季節が変わるにつれて段々と様々な色が混ざり合っていくのが、僕は好きである。青々としていた山の木々の中に、徐々に赤や黄や茶が点々としはじめている。いつも通りであれば紅葉や黄葉を見ながら一杯、というところなのだけれど、今はそれどころではない。春の様子がどうもおかしい。会おうといっても用事があるとかで断られるし、伊藤から聞いたところ大学も休みがちになっているらしい。伊藤に原因を尋ねてみても、思い付かないと首を捻っていた。一体どうしたというのだろう。直接聞ければ何か対処のしようもあるのだけれど、僕にも会ってくれないのはなぜなのか。僕も原因を考えてみるけれど、全く心当たりがない。春に後ろめたいことなど一つもないのである。僕は正直者であろうといつも心がけている。春に会うことさえできれば。僕は十月某日、春の下宿先で彼女を待つことにした。

 彼女の下宿は、大学から徒歩五分のところにあった。肌色のオートロック付きの六階建マンションである。まだ建って間もないピカピカの家なのである。僕の家とは雲泥の差であった。僕にとってはどちらでもいいのだけれど。普段は糺の森で木の葉を集めて寝起きしているのだけれど、人間用の家もあった方が何かと便利なのだ。六畳一間の風呂なし木造アパートである。そこには僕が今までに集めた本が雑然と置いてあって、足の踏み場もほとんどない。僕は本が好きだ。本を読むと、人間と心から話せているような気持ちになるのである。どこまでいってもたぬきである僕にとって、他の人間と同じように話してくれる彼らは、僕にはとてもありがたかった。知っているかい、人間は同じことをもう二千年以上も書き続けているんだよ。どの時代のどの本を読んでも、多少の違いはあってもほとんど一緒なんだ。人間は阿呆だから、何度も何度も言い続けて、それでもいつか忘れて、またふと思い出して、すぐに忘れて、とんでもない新しいことを今思いついたみたいに叫ぶんだけど、結局同じなのさ。千六百年くらいの誰かが、同じことを書いてるよ、きっと。でも僕はそんな人間がおかしくて素敵だと思う。僕も一緒に大騒ぎしたいもの。たぬきは元来、祭りがなくては生きていけない生き物なのである。

 秋の淋しい陽が沈んで、白っぽい街灯だけがマンションの前の道にぽつぽつと光っていた。待ちはじめてから随分と時間が経った。もう九時くらいだろうか。オートロックの玄関の横でじっと待っているのだけれど、春はまだ帰ってこない。外から春の部屋を見てみても、明かりはなく真っ暗である。時々マンションの住人が帰ってくるのだけれど、僕をちらと訝しげに一瞥して、すぐに顔を玄関のほうへ向けて、なるべくこちらを見ないように中へと入っていった。僕はおかしな女子大生になっていることにようやく気がついた。マンションの入り口で、阿呆な顔してじっと座っているのは、女子大生といえど見栄えが悪い。僕も大概おっちょこちょいである。今日は諦めようかとマンションの前の道に出ると、暗闇の中からとぼとぼと歩いてくる小さい人影が、街灯に照らされて白くぼんやりと見えた。春だった。


 「春!」僕は声を上げて駆け寄っていった。

 春ははっと顔を上げた。青白くひどくやつれた顔がいたたまれない。彼女はその場に膝をがくんとついて、顔を覆って啜り泣いた。僕は春の肩をそっと支える。

「一体どうしたの、何があったの」春は黙ったままだ。

「僕にできることがあるなら何でも言って、力になるから」そう出鱈目を言いながら僕はひどく狼狽していた。たぬきにできることなど限られている。ああ、僕はどうして人間でないのか。

「どうしてそんなこと言うの」

「え?」

「はっきり言ったらいいじゃない」春は一体何のことを言っているのだろうか。僕は春に隠し事など一切していない。自分がたぬきであること以外はだけれど。はっきり言えと言われても、とんと持ち合わせがないのである。春はこの世の全てが消えてなくなってしまったような、疲れ切った表情で僕をぼうと見ているが、その視点は僕に合っていない。何ということもなく、ただ一点で止まっている様子である。

「どういうこと?」

「ああ、八菜ちゃんのこと、たった一人の友達だと思っていたのに、どうして」春の顔はいよいよ蒼白である。

「春、一体何が何だか。分かるように言ってよ」春は項垂れていた顔をむくと上げ、胸に両手を合わせながら、僕の方を向いた。

「八菜ちゃん、伊藤くんと付き合ってるんでしょう?」

「僕が、伊藤と?」訳が分からなかった。僕はただ口をぽかんと開けて、茫然としてしまった。僕が伊藤と付き合ってる、一体何の冗談だろう。笑い飛ばすこともできない程、突拍子もないことであった。

「ちょっと待ってよ、なんでそんなことになってるの」当然の疑問である。

「もういいの、隠さなくっても。私ももう疲れちゃった」春はふらふらと立ち上がった。

「あのね、少し前から伊藤くん何だかよそよそしかったのよ。私と会ってても何だかぼうっとしてて、どうしたのって聞いても、何でもないよとしか言わなかったの。私、何かまた、困ってることでもあるのかなって心配になって、この前伊藤くんが学校から帰るところを後からこっそりついていったら、そこに八菜ちゃんがいるんだもん、私本当にびっくりして、だって二人が遊んでるところなんて見たことなかったんだもの、それから一緒にカフェに入っていくのを見ちゃったの。中で楽しそうに話してたから、ああって、私気づいちゃって、ごめんなさい」春は懺悔するかのように重々しく話した。

「なあんだ」僕はほっとして頬がゆるゆるに解けた。それからだんだん笑いが込み上げてきた。そうだ、春はこういう子であった。確かに僕は今年の夏初めて伊藤と話してから、何度か一緒にカフェに行ったことがあった。伊藤の話を聞いてやっていたのだ。あの小心者は、春と今以上に親密な間柄になることに怯えていたのである。どこまでいってもあいつの心臓はたぬきより小さい。そのどれかを春が偶然見てしまい、早合点したというただそれだけのことだったのである。それにしても、楽しそうにしていたとは心外だなあ。いや、僕の化け力が上達しているということか。春だからそういう風に見えただけかもしれない。とにかく一安心である。

「春、僕は伊藤からの相談を聞いてただけだよ。君は思い込みが激しすぎるところがある」

「そうなの。じゃあ、二人はただの友達ってこと?」春は眉を曲げて尋ねる。まだ何か不安なようだ。

「ああ、そうだよ。いや、友達というか、知り合いくらいにしといてよ」僕はもはや、ばかばかしくなっていた。

「ああ!ごめんなさい八菜、私なんだか不安になっちゃって」春の体の緊張が一気にほぐれていくのが目に見えてわかった。分かりやすいというより、危なっかしくて破滅的だという感覚がざわざわと心に残った。この性格は、春が生きていく中で色々と苦労するのだろうな、とたぬきながら春のことを可愛そうに思ってみたりした。

「うちでご飯食べていきなよ!」春はけろっと元気な顔をして、頬には赤みが戻って、僕の手を引いて家の方へと歩いていく。

「今日は野菜系がいいな、しいたけとか」僕は肉も魚も食べるけれど、野菜がタヌキには欠かせないのである。しいたけは野菜に入るのかしら。今はきのこが美味しい季節だ。冷蔵庫にあったかなあ、と言いながら、春は僕と繋いだ手をぶんぶん振ってにこにこしている。先ほどのことは、もうすっかり忘れているようだ。やっぱり人間は、たぬき以上に阿呆である。そして春は、愛すべき阿呆なのだ。

 

あとがき

 木下春と伊藤何某の今後のお話は、また機会があれば書いてみようと思います。初めは結末まで書いてしまおうかと思ったのですが、ここで止めておくことにしました。季節のせいかもしれません。いいえ、正直であろうと精進すると誓った身です、はっきりと申し上げます。書くのが辛くなったのです。八菜の行末に一人悲しくなってしまったのです。しかし今更消し去ることもできず、貴君の想像にお任せすることに致しました。できることなら、春には、そしてついでに伊藤も、貴君の妄想の中で、強く優しく生きてほしいと、陰ながら祈っております。ああ、またこんな嘘言ってらあ。


                          令和五年三月四日 伊藤壱

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春と道化 伊富魚 @itohajime

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