ぬいぐるみと、オッサンの住む街
羽弦トリス
ぬいぐるみと、オッサンの住む街
ことの発端は会社の忙しさにある。妻のかおりがまだ、6歳の一人娘を連れて実家に帰ってしまった。
その日も、23時まで仕事をして終電で帰宅した。
帰宅しても、部屋は真っ暗。
部屋の灯りをつけても、物音しない。このマンションは35年ローンで買ったものだ。
あと、30年間一人暮らししなければならないのか?
前原は考えても、埒が明かないのでスーパーの半額弁当と缶ビールを2本買い物袋から取り出し、先ずはビールを飲んだ。
余り、美味しくない。そう、彼は別居1ヶ月前から、精神的なものが原因か分からないが、食べ物、飲み物の味がしないのだ。
早く、弁当を食べ、シャワーを浴びた。
そして、寝室へ向かいベッドに横になった。
「おいっ、オッサン」
そう、聴こえた前原は辺りを見渡した。誰もいない。
「オレだよ!パンダのぬいぐるみ」
前原は恐怖を感じながら、
「お、前、どうして喋れるんだ?」
「わかんねぇけど、喋れるんだ。オレは長年、さっちゃんと遊んできたんだ。人間の言葉はわかるさ」
さっちゃんとは、一人娘のさやかの事である。
喋るパンダのぬいぐるみは、かおりが持ち忘れたものだった。
さやかは当時はガチャガチャの人形で遊んでおり、パンダのぬいぐるみは放置されていた。
「前原さんよ~、今後どうする気だい?」
「妻とさやかが戻って来る事を願うのみだ」
「甘いなぁ」
「何だとっ!」
「転職して、家族ともっと触れ合える環境を作りなよ!」
「……転職かぁ~」
「前原さんはまだ、30だろ?仕事はあるって」
「ちょっと、考えさせてくれっ!」
「まぁ、今夜はこのくらいにしてやる。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
前原は直ぐにいびきをかいて、寝た。
相当、疲れているのだろう。
翌朝、朝の6時半には家を出た。そして、その晩は7時に帰宅した。彼の職業は文房具の営業なのだ。
店によっては、罵りを受けたり、罵倒されたり。
毎日が疲れていた。
テーブルにパンダのぬいぐるみを置いて、食事を始めた。
「前原さん。帰宅すると、相当疲れた顔してるね?」
「当たり前だろ、毎日、罵倒されりゃ顔つきも悪くなるさ」
前原は缶ビールを飲んでいた。コンビニのお惣菜で。今日は金曜日。土日祝休みの前原の一番のリラックス出来る日であった。
「前原さん、転職考えた?」
「……うん」
「何の?」
「喪中ハガキのライター」
「あぁ、薬石効なく……の」
「文房具の営業してたら、言葉を覚えてさぁ。向いてるって思うんだよね」
「それは、凄い!定時でしょ?」
「うん。6時が定時。残業なし!」
「かおりさんに、電話しなよ!転職したら」
「分かった。来週の木曜日面接だから。受かるか分からないけど。後、決まってもうちの会社は1ヶ月後にしか退職出来ないんだ。引き続きとかね」
「前原さん、僕の予想じゃ来月、嫁さん、さやかちゃんが戻ってくるよ!」
前原は、マカロニサラダを食べながら、
「本当に?」
「うん、本当」
前原は嬉しくなり、パンダのぬいぐるみを抱きしめた。
「お、オッサン、痛い!」
「オレは嬉しいんだよ!」
「分かった分かった」
1ヶ月後。
前原は文房具会社を辞めて、ライターの仕事を始めた。
リモートワーク出来るので、かおりを説得させて、家族3人幸せの日々を送った。
それ以来、パンダのぬいぐるみは話さなかった。
ある日、かおりとさやかが2人で出掛けた。
「久しぶり、オッサン」
パンダのぬいぐるみが話した。
前原は嬉しくなり、
「おぉ~、ぬいぐるみさん。言われた通りにしたら、上手くいったよ」
「それは結構。で、こちらも報酬を受け取らなければ」
前原は頭を傾げた。
「報酬って、何?」
「前原さんの命さ」
「命~。ふざけんな!」
「でも、割りが合わないんだ」
前原はマンションのベランダから、パンダのぬいぐるみを投げ捨てようとした。
柵に捕まり、思いっきり投げた!と、同時に柵が外れ、前原は駐車場へ転落した。
重体だった。
パンダのぬいぐるみは、道路へ転がりトラックのタイヤの下敷きになり、バラバラに散らばった。
前原は、重体にもかかわらず一言言おうとしていた。
「あの、ぬ、ぬいぐるみは、自殺した、お、おふくろの、か、形見だ」
前原は死んだ。
終
ぬいぐるみと、オッサンの住む街 羽弦トリス @September-0919
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