ナイチンゲールは振り向かない
八ツ幡 七三
プロローグ
「くそったれ、どこに逃げやがった! ミア・セレナード!」
だみ声が暮れなずむ林の中に響いた。
その大きな声に驚いたのは彼女だけではない。鳥たちが一斉に飛び立って、夜に溶ける森は途端にざわめいた。
屈強な男たちが、ランプを片手にうろついている。その腰には銃やナイフが携えられ、何がなんでもミアを捕まえるつもりらしかった。
(おねがい、早くあっちに行って……)
ミアは茂みに身を隠し、切りたてで短くなった髪の上から薄汚れた毛布をかぶって、追跡者が過ぎ去るのをひたすら待っていた。
体は氷のようにつめたいし、何よりも寒かった。
足音が近づくたびに心臓が痛くなる。両手を口元にあてて声が漏れそうになるのを必死でおさえた。
「無駄な抵抗はやめなよ、ミアちゃーん」
「男爵さまがお待ちだよ」
――男爵。タクトの町を牛耳る成金だ。
ポケットに手が触れるとかさりと音がした。そこには、くしゃりと丸まった手紙が入っている。今朝方、男爵の使いから届けられたものだ。
(あんの成金、好色すけべオヤジ……)
内容を思い出すだけで吐き気がする。
――今宵、きみを館に招待したい。迎えを寄越すよ、私のナイチンゲール――。
そんなことが書いてあるが、望みはそれだけではあるまい。
あの成金は、一回り以上も年の離れたミアを愛人にしようとしているのだ。ミアを手に入れるためには手段は問わないようで、逃げたと知るや筋肉だるまども――もとい、追っ手を差し向けてきた。
息を殺して毛布をかき寄せると、首筋がちくちくした。
取り急ぎ切った亜麻色の髪はふぞろいで、不格好だ。それでいてよく手入れしていたから
一見して、少年のように見えるか、それとも……。
胸のふくらみを隠す時間がなかったから、その辺に干してあった男物の服を拝借してきたが、これで騙せるとも思えない。
風が吹いて、ぶるりと震える。
適当に引っかけてきた外套は、逃走の間に木々に引っかかってボロボロになっている。教会から支給されているそれを身につけていれば、何を言わずともミアがどこの所属かばれてしまいそうでおそろしい。
かじかんだ指先にはあっと息を吹きかける。震えはいつまでたっても止まらない。
衝動のままに宿舎を飛び出してしまったが、正直どこに逃げたらいいのか全くわからなかった。
頼れるような者はいない。ミアに親はなく、血縁者の顔も知らなかった。
このまま見つからずにやり過ごしたところで、行くあてなどない。
女のひとり旅はあらゆる危険がつきまとう。何よりも侮られるし、ろくな小遣い稼ぎもできない。
森は街道からも、町からも離れている。人通りは少なく、とても誰かに助けを求められる状況ではなかった。
「何が不満なんだか。たいして役に立たない歌い手をかわいがってやるって言うのに」
聞こえよがしに吐かれた言葉に胸が冷える。
たいして役に立たない……まったくもってその通りだ。ミアがいなくなっていることに、きっと教会の誰も気づかないだろう。
そう思うと胃のあたりがキリキリと痛む。一方で、もう誰の目も気にする必要はないのだから好きにすればいいと開き直った気持ちになる。
ミアは膝を抱えて唇を噛んだ。
「もらい手があるだけありがたいだろうに。どうせこのままじゃお払い箱だぜ」
「笑わせてくれるよな。あんな能力じゃ、いてもいなくても同じだろう?」
存在価値などないと突きつけられたようだった。それは誰からも選んでもらえなかったことからも明らかではないのか。
結局、ろくな男が寄ってこない。ミアを欲しがるのは、女をとっかえひっかえする、性欲旺盛なろくでなし野郎――そう思うと乾いた笑いがもれる。
(冗談じゃないわ……)
選り好みできる立場ではないのは重々承知しているが、あんな男の愛人になるなどまっぴらごめんだった。
どうせなら、ミア好みの男の愛人に収まりたい。結婚なんて大層なことは望まないから。
変な男に見初められたくなかったら、目立つ行動は控えるべきだと仲間内でよく話したものだが、昨晩のミアはどうかしていたのだ。
――俺は絶対に眠らない自信がある。
ふと男の言葉がよみがえり、ミアは消え入りそうな声で呟いた。
「嘘つき」
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