08 識
「いったい、あれは何なの!」
るう子が絶唱した。
十階建てのビルほどもある蠢く怪物。その表皮はヌラヌラと光り、身体全体をブヨブヨと振動させ、手も足も顔もなく、芋虫のような、ミミズのような、けれども昆虫の腹のような、魚の目玉のような、オニユリの球根のような、アナログ回路のプリント基盤のような……理解不能・形容矛盾の形をしていた。
(形容詞が副詞に言い換えられ、その副詞が本来名詞だったはずの言明を動詞化した。そのため他動詞に変わってしまった元名詞には対象ないし目標が必要となり、副詞に変わった形容詞の名詞形をその必要物とした)
瞬間、るう子は思い、そして驚愕した。
(わたしったら、こんなときにいったい何を考えて……)
すると彼女の背後で破裂した野洲の存在が希薄になった。すると、その替わりにとでもいうかように別の気配が濃厚になった。その気配に誘われてるう子が振り返ると、そこには野洲の内部が変じた別の怪物が蠢いていた。窓の外の巨大な怪物と同種だが、決して同じではないもの。形容詞と副詞の違いのような、相互転換は可能だが、決して同じにはならないもの。
(信じられない! 何もかも、見たものも、考えたことも、わたしが感じたすべての〈こと〉と〈もの〉が……)
るう子は混乱した。
事態を受け入れることができなかった。
(あああああああああああああああああ!)
頭を抱えてしゃがみ込んだ。
けれども彼女には目を閉じることができなかった。たとえ、その背後で起こっていた医者と警官二人と前原慎二の身体の変化が、彼女がこれまで信じ、その存在のよりどころとしてきたすべての経験&常識判断からあまりにかけ離れたことであったにしても……
彼女の常識が彼女の中で静かに崩れ、そして一瞬の後、爆発した。
その変化を起こしていた目に見える言語の存在を受け入れる/受け入れない/入れる/入れない/れる/ない/る/い。
〈イメージ!〉
もし、そう呼べるならば……
日本語、英語、フランス語、ドイツ語、エスペラント語、楔文字、漢字、ボディ・ランゲージ、その他ありとあらゆる言葉の群れと各種の数学記号、物理記号、化学記号、計算機記号、音楽記号――それらが固まり、絡みあい、結びつきあい、反目し、協調し、メタ言語と化して――まるで宿主を見つけたウィルスのように彼ら四人の身体にそれぞれ取りつき、遺伝子導入管を伸ばし、目標体の身体に突き刺し、自らの元を注入し、空間認識を変え、時間認識さえ変化させて……
と、そのとき――
グラリ
病院の建物全体が大きく揺れた。
バキバキバキ メリメリメリ
巨大な言語怪物が病院を襲っていた。
コンクリートを叩き、ガラスを割り、身体全体をブルブルと振動させ、ビルという名の病院建物すら自らの裡に取り込もうとするかのように……
窓ガラスに張りついた怪物の表皮を見て、
(食べているんだわ!)
瞬時の間もなく、るう子は思った。
(無機質さえも同化させて、自分たちを増やすために、アメーバのように、ファージのように、利己的DNAのように、有機物のように、生き物のように……)
グラリ
再度、建物全体に鋭い揺れが走った。
ガラガラガラガラガラガラ……
天井が崩れてくる。床のタイルが歪に盛り上がって弾け飛ぶ。すぐ目の前では実在する言語ファージが三人の男たちを襲っている。本当は〈立て〉ていないかもしれないチュルチュルという音を〈立て〉ながら……。
襲われた四人の男たちの表情はみな一様に虚ろだった。まだしも恍惚の表情が浮かんでいれば、そうしたら、そうしたら、わずかでも救いがあると…… そう思って、るう子は身震いした。相同型の異質がこんなにも怖ろしいモノだと思ったことがなかったからだ。言語自体は、その存在を顧みることもないくらい自分にとって身近な存在だ。けれども、それが具体的な形を与えられて目の前で蠢くとき、恐れ、怯え、畏怖、恐慌、戦慄、その他怖れに関するすべての感情をひっくるめた以上の恐怖が身内から沸き上がってきたのだ。自分の心のもっとも深いどこかから、まっ黒な虹を浮かび上がらせて……
と、そのとき――
プスリ!
彼女は背中に鋭い痛みを感じた。衝撃で床に押し倒された。はっとして首だけまわして振り返ると、そこにいたのはもうひとつの言語ファージ。病室にあった電話の送受機がいつのまにか外れ、そこから延びた、蜘蛛のような、毛虫のような、卵のような、蛇の腹のような、頭足類の触手のような存在の一端が、いま一瞬、
(わたしに刺さった?)
すると、そう思ったとたん……
とてつもない痛みがるう子の身体全体を駆け抜けた。
ギャァァァァァァァァァァァ…
彼女は悲鳴を上げた。
病室は揺れている。背中の一部がゴリゴリする。いずれも、実在する言語怪物による物理的衝撃によって……
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
るう子は絶唱した。すばやく起き上がると、背中にまわした両手で触手を掴んだ/引き抜いた/投げつけた。自分につき刺さった言語怪物の鋭い触手を引き抜いて、それが侵入してきた送受機に向かって力いっぱい投げつけた。
すると――
バリン
その衝撃を受けてプラスチックの電話機が割れ、辺りに粉微塵に砕け散った。
ついで、ズキン!
彼女の身体を鈍い痛みが駆け抜けた。目を見開いて、黒い電話機が破壊される光景を脳裡に焼きつけたとき、ヌメッとした感触を両掌に感じた。驚いて両手を見ると、触手を掴んだその掌が血だらけになっている。
同時に視界に入る三つの光景。
掌の血/怪物と目の前の男たち/窓ガラスに腹を擦りつける巨大怪物。
その中で優勢になった光景は?
破壊された電話機の近くから再び怪物が自分めがけて襲ってくるのを、視界いっぱいの大写しで彼女は見た/感じた/確信した。
先に言語ファージに取りつかれた男たち、その中の恋人のこと、外の巨大怪物のことが頭から消えた。
すると、次の瞬間――
バタンと〈本〉が閉じられた。
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