07 憎
工藤里砂の背後に現れた怪物が形を変えた。
けれども一瞬息を飲み、ついで甲高い叫びを上げて怪物から離れる方向に移動していた里砂には、その変化がわからなかった。(机にぶつかり、彼女は膝を打った。痛いと感じる余裕はなかった)。彼女は全身に強く怪物の気配を感じていた。(里砂は走る方向を間違えていた。彼女の逃げる先には研究室の出口はなかった。あるのは壁だけだった。世間でセクハラが騒がれて以来めっきり見る機会が減ってしまった美しいヌード・カレンダーの掛かった壁)その怖ろしい、自分の理解を超えたものから逃げ去るには、それだけで充分だった。
奇妙な振動数で全身を震わせている怪物は、はじめ無数の棘の生えたミミズのような形状をしていた。(里砂は振り向くことができなかった。けれども、このままではいずれ怪物に追いつかれてしまう)と、瞬間、ミミズが棘を伸ばし、自分に絡みついてくる幻視に囚われて悲鳴を上げそうになった。プスリと何かに刺されるような気がして、
(だめよ! そんなこと考えちゃ)
蹴飛ばしたぶ厚い板金の機械が、その上にのった書類や論文、シャープペンシルとともに音を立てて床絨毯に崩れ落ちた。(その山を乗り越えて里砂は進み、逃げ場のない壁にペタリと貼りついた)。ひたすらおぞましいもの。里砂は、それをそう感じた。それ以外には感じられなかった!(一瞬、もしそれがミミズではなく男根だったら多少はマシかもしれない、と里砂は思った。ほんの一瞬のことだ!)。けれども里砂には、それが自分の〈ひたすらおぞましさ〉という言葉に伴うイメージであることに気づかなかった。(すると怪物が男根に形を変えた!)気配の変化を感じて里砂が振り返った。変化したそれを見て気を失いそうになった。
すると――
それが口をきいた。
「´〇《℃≠‰@♪†……ゑθЮ〓Ⅳ≒〓∋∂⊥∬」
里砂は混乱した。
自分の頭の中で何か違うものが蠢いている!
(再び、里砂が混乱する。近くにあった書類や金属片を掴んでは怪物めがけて投げつけた)
ブニュッッッ
鈍い音で、それらは怪物に当たった。
ついで、当たったそれらが怪物の中に取り込まれた。
ついで、怪物の形状がまた変化した。
それはもう里砂の制禦範囲を超えていた。
すでに怪物は、彼女独自の思考から自由になっていたのだ。生まれ、増殖・変化し、生き延びる。それ本来のプログラムにしたがって、それ自身の活動を開始する。
と、突然――
里砂の身体が内側から大きく引き裂かれた。(里砂の目が、これ以上できないというほどの大きさに見開かれた。その目の中にあったのは〈信じられない〉という純粋の恐怖!)。体皮がほぼ身体の中心線から引き裂かれ、メリメリと音を立て、骨さえ割れた。内臓自身もその中心から大きく膨らみ、バァン! あたりに弾け飛んだ。宮武情報科学研究室の壁という壁がまっ赤に染まった。元々は里砂のものであった血と内臓の意匠として……
そして怪物もそれを浴びた。浴びて、笑った。笑ったとしか思えない身体の振動を見せた。一定期間の宿主内成長を終える以前なら、それは決して怪物には浴びられなかったはずだ。
〈実在化〉
血糊の形をとった、それ。
その四次元時空内実在物と同様のものに怪物自身が変化・成長したのだ。元は天文台の所員の脳内思考だった怪物が手に入れた実在。悠久の昔に書かれ、ある人為現象と出合ったがために歪められてしまった彼自身のプログラム実行の帰結。
それは増えねばならなかった。増えて、広がり、その実在を主張しなければならなかった。あまねく時間と空間のすべてに渡って……
そして、それは移動を開始した。
いま目覚めたばかりのそれの仲間、元は工藤里砂の思考であった言語存在に親しみ(と、仲間であるがゆえの憎しみ)を感じて、それは電話回線に乗った。北羅瀬天文台から、ここ宮武研究室に辿り着いたように、己自身をノイズに変えて……
しかも今度のそれはiではない実在の電気信号ノイズなのだ!
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