モノの声が聞こえる私と、ぬいぐるみの話

宮下明加

モノの声が聞こえる私と、ぬいぐるみの話

 私は幼い頃、少し変わった子どもだった。

 手元のぬいぐるみや文房具、雑巾にされそうになるタオルまで、モノの気持ちや言葉がわかるのだ。

 故に、物を捨てると言うことに抵抗がある。


 捨てないで。

 まだ一緒にいたい。


 そう聞こえるからだ。


 ぬいぐるみなんかその最たるもので、私からもよく話しかけていたし、彼らの声も聞こえていた。


「おはよう」

『今日はいいことあるといいね』

「そうだといいな。いってきます」

『いってらっしゃい。気をつけてね』

「ただいま……」

『おかえり。今日は何かいいことあった?』

「いつも通り。学校は嫌い。なんで私はいじめられるんだろう」

『……大丈夫。私たちはあなたを愛しているよ。大好きだよ』

「ありがと。ずっと一緒にいてね」 


 私のベッドの上は常にぬいぐるみでいっぱいだったし、彼らに囲まれている時間はとても幸せだった。


 そんな少女時代を過ごしたわたしもやがて大人になり、結婚して子供が産まれ、いつしかモノの声が聞こえなくなっていた。

 

 ある日。

 風邪を引いた息子が布団の上で盛大に嘔吐し、一緒に添い寝していた黒猫のぬいぐるみ『ネコ』が汚れてしまった。

 処理を手伝ってくれていた夫が「もうこれは捨てていいね?」と顔を顰めて『ネコ』を摘み上げ、ゴミ袋へと突っ込んだ。

 私も仕方ないなと息をついて、『ネコ』から目を逸らしたその時。

 強く聞こえたのだ。


『いやだ。捨てないで!』


 私は咄嗟に吐瀉物に塗れ、大量のティッシュと共に半透明のゴミ袋に入れられた『ネコ』を凝視した。

 いつも通り『ネコ』はにっこり笑っていた。だけど聞こえる声は私に縋るような叫び。


『まだ一緒にいたい……! みんなと一緒にいたいよ!』


 その時、吐いても泣かなかった息子が、夫に縋りつきわんわん泣きだしたのだ。

 

「パパ、『ネコ』捨てないで! 『ネコ』が泣いてる! 捨てないで一緒にいたいって泣いてる!」


 夫は、息子は熱に浮かされて妄言を吐いているのだと思っているのだろう。

 戸惑った様子で息子を見下ろしていた。

 そんな息子は夫の手からゴミ袋をひったくると、ガサガサとゴミ袋から、吐瀉物と濡れたティッシュに塗れた『ネコ』を取り出して抱きしめる。


「『ネコ』ごめんね。汚しちゃってごめんね!」

『いいよ、わざとじゃないんだもん。助けてくれてありがとう……』


 いつの間にか、息子と『ネコ』の間に深い絆が生まれていたのだ。


 私は、息子を宥めて落ち着かせ、『ネコ』を洗うことにした。

 浴室に、息子が赤ちゃんの頃に使っていたベビーバスを置きぬるま湯を溜めて洗濯洗剤を溶かす。

 ぬいぐるみをちゃんとした方法で洗うのは初めてだから、インターネットで洗い方のページを開きながら丁寧に洗った。

 洗いながら、こんな歳なのに人の親なのに、涙が溢れてきてしまった。

 モノの声が聞こえる私は、おかしい。

 モノに意思なんてあるわけがない。

 モノの声が聞こえるなんて、私が作り上げた妄想だ。

 いつまでも子どもみたいなこと言ってないで、ちゃんとしなきゃ。

 他の人はモノの声なんて聞こえないんだから。


「ごめんね『ネコ』。私はあなたを諦めようとしてしまった。……自分を抑え込んでた」

『……でも、今こうして洗ってくれてるでしょ? それに、みんなとっても喜んでる』

「みんな?」

『ぬいぐるみや人形たち。大人になったキミを誇らしく思ってるし、僕らを大切にしてくれるキミがまだ僕らの声を聴くことができるって、喜んでる』


 人に大切にされたモノにはが宿る。

 魂が入ったぬいぐるみや人形に恐怖感を感じたりする人もいるだろう。

 だが、彼らは愛してくれる人に害を及ぼしたりはしない。

 決して。


 私は腕まくりの手首でグッと涙を拭うと、湯船から『ネコ』をそっとあげた。そして『ネコ』の体に染み込んだ洗濯洗剤水をシャワーで丁寧にすすぎながら、微笑んだ。


「私、無理して強がらなくてもいいんだね。みんなの声を聞ける私を誇ってもいいんだね」


 

 数日後。

 

 丁寧に洗われた上に柔軟剤のトリートメント風呂を堪能し、中綿までしっかり乾かされた『ネコ』は、他のぬいぐるみよりもホワホワのふかふかになって戻ってきた。

 その日から早速、すっかり風邪が治った息子の添い寝に付き合わされている。


 そして再びの声が聞こえはじめた私は、それから数日の間『わたしも洗って欲しい』と訴えるぬいぐるみを、息子と共に手洗いする日々が続いた。


 別に誰かに言うわけでもない、他の大人より少し幼い私のチカラ。


 くたびれすぎた君たちが、もうお別れだと告げるまで、私は君たちと一緒にいよう。

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