傘を忘れた金曜日には
へーるしゃむ
日付のない春の形式
茶番劇
01-01 進退窮まる
四月下旬のことだった。
木曜の放課後、時刻は昼下がり、東校舎三階の隅にある文芸部の部室の真ん中で、瀬尾 青葉はぽつりと呟いた。
「これは由々しき事態ですね」
部室の中央に二つ並べた長机を挟んで、俺は頬杖をつきながら瀬尾の様子を眺めている。深刻ぶった声の調子に、やけに落ち着かない気持ちにさせられる。どうしてだろう。
とはいえ、それはべつに彼女のせいでもないだろう。どうにか心の中だけでおさまりをつけようと苦心しつつ、俺は相槌を返した。
「進退窮まった、といったところではあるな」
まさしく、と言いたげな悲しげな表情で、瀬尾は頷いた。
思いのほか落ち込んだ様子の彼女の姿を、俺は意外な気持ちで見ている。
もっと無関心な奴かと思ったが、部長に任命されたことで責任感でも覚えたのかもしれない。
まあ、任命されたとは言うものの、この文芸部には現状、実質的には部長と副部長のふたりしかいない。
だから消去法だったはずだが。
そして、それがまさしく、いま俺たちに降りかかっている問題だ。
考えたことがないわけではなかった。
去年の春、俺と瀬尾が入部したときには、七人の先輩がいて、ただし全員が三年生だった。
彼ら彼女らは去年の秋の文化祭を最後に引退して、今年の春に卒業した。
結果、部室に残されたのは俺と瀬尾のふたりだけになった。
比較的まじめで熱心な瀬尾が部長に信任されたのは当然の成り行きだと言える。
反対に、俺のようなやる気のない人間に副部長を任せざるを得なかったのは、先輩たちとしても顧問としてもさぞかし苦渋の決断だったことだろう。
同情に値する。改善する気はないが。
この高校の文芸部の歴史はだいたい二十年だか三十年だか前までにさかのぼるという。
一度誰かに聞かされたはずだが、具体的には覚えていない。
ひょっとしたら四十年だったかもしれない。まあどうでもいい。
とにかくずいぶん長い間、この文芸部は文芸部としてこの学校の中にあった。
メンバーが入れ替わり、部室が移り、顧問がかわり、それでも文芸部は文芸部のままだったのだ。
あたかも、船の部品をひとつひとつ取り換えるうちに、最初と同じ部品がひとつもなくなってしまったあの神話の船みたいに。
まあ、爪や髪の生え変わりと思えば不思議でもないが。
そして目下の問題は、次の髪が生えてきそうにないことだ(悲しい話だ)。
「危機的状況」と瀬尾がうめく。こうされると、俺も対応に困る。
ことの発端は単純だ。
七人の先輩が卒業したあと残された文芸部の部員の人数。
これは部活動の成立要件である「部員数五名以上」を下回っており、よってこの項に抵触する。
瀬尾はそう言うのだ。
なるほど、と俺は思った。
とはいえ、四月から新入生も入学したのだ。
勧誘に成功して新入部員を獲得できれば解決、という話でもある。
仮入部期間は四月いっぱい。それまでに間に合えばいい。
簡単ではないだろうが、不可能な条件ではない。
「なんだかんだでどうにかなると思うよ」と、先代の部長も俺たちに言っていた。
ところが俺たちは失敗した。どうにもならなかった。
理由はシンプルだ。
勧誘がうまくいかなかったわけじゃない。そもそも勧誘しなかったのだ。
四月のはじめ、新入生歓迎会が終わったばかりの頃は、俺たちだって何も考えていないわけじゃなかった。
「そろそろ何か考えないとね、ビラ配りとか、ポスター貼ったりとか」
そんなふうに責任を果たそうとした瀬尾に対して、めんどくさいなあというのが正直な俺の感想だった。
それでも、そうだな、なにか考えないとな、と返事をした。嘘をついたつもりもなかった。
それなのに、気付いたら四月末になっていた。
「どうしてこうなったんだろう」
瀬尾は長机の上にほっぺたをくっつけてだるそうに溜め息をついた。
なにもしなかったからだ、とは言わないでおくことにする。
彼女はなおも不服げに、「こんなはずじゃなかったんだよなあ」とか言いながら指先で机の上面を叩いてリズムを刻んだ。
「ねえ、どうしたらよかったんだと思う?」
目も合わせないまま問いかけてくる瀬尾に、心の中だけで、勧誘すればよかったんだよ、と答えた。
「どうすればピアノが上手になると思う?」と訊かれたら「練習する」としか答えようがないのと一緒だ。
でも言わない。めんどくさいから。
「あんまり心配するなよ。そんなに考え込まなくても、最後には全部よくなるよ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「いいか瀬尾」、と俺は偉ぶった口調を作った。
「この部は何十年も前から途絶えることなく続いてるんだ。俺たちが何もしなくても今日まで続いてきた」
「うん」
「ということは、俺たちが何もしなくてもこれからも続いていくって考えるほうが自然だろう?」
「……えっと、どっかで理屈がおかしくなってると思うんだけど、どこからかわかんないな。わたしつかれてるのかな」
「そうだよ。ゆっくり休め」
「なーんか、口車に乗せられてる感じがするなあ」
そう言って、彼女は机から体を起こすとパイプ椅子の背もたれに体重を預ける。
それからじとっとした目でこちらを見た。
それにしても、彼女の仕草、表情、相貌、姿かたちを見るたびに不思議な気持ちになる。
「こんなことってあるんだろうか?」というような。
起きるはずのない奇跡を目の当たりにしているような。
そんな奇妙な心境だ。
出会って一年以上が経つ今になっても、ときどきふとした瞬間にどきりとさせられる。
そのうち慣れるかと思ったが、そうもいかないらしい。
「あーあ。このままじゃ廃部かなあ。先輩たち、悲しむかなあ」
いまだに拗ねたような口ぶりで話し続ける瀬尾の様子を眺めながら、俺も少しだけ考えた。
正直なところ、文芸部に対して義理や執着はあまり感じていない。
だから、今回のことも彼女が言うほどの問題だとは思っていないのだが、目の前でこう落ち込まれると居心地が悪い。
「……あのさ、瀬尾」
「ん?」
「そんなに気にするくらいなら、勧誘すればいいんじゃないの、これから」
「なんで他人事みたいに言うのさ、副部長は」
「いやまあ、言葉のあやだよ」
勧誘なんかできることならしたくないからだ、とは言わないでおくが、たぶん瀬尾は察していることだろう。
俺は椅子から立ち上がって窓際に近付いた。
中庭の大きなケヤキの下で、何人かの女子生徒が休んでいるのが見える。
雰囲気からして、新入生だろう。
ぼんやりと眺めているうちに、そのうちのひとりに見覚えがあることに気付く。
窓を開けて身を乗り出すと、春先のゆるい風が心地いい。
空は高く薄い水色、曖昧な輪郭の雲が描かれたように動かない。穏やかな日だ。
窓枠に肘をかけて、新入生の一団を眺めていると、そのうちのひとりが、不意に顔をあげてこちらを見た。
思わず驚いて身を隠しそうになったが、そうする理由がないことに気付いてやめた。
やましいことなんてなんにもしていない。
「副部長はさ、廃部になってもいいの?」
「そうは言ってないよ」
まだ、中庭からの視線はこっちを見ている。
目が合ったまま互いにそらさない状況こうも続くと、さすがに気まずい。
そろそろ離れるか、と思ったところで、彼女はこちらを見上げたまま軽く手を振ってきた。
どきりとして、慌てて窓辺から離れ、瀬尾との会話に戻った。なぜかわからないが負けた気がする。
「じゃあ、勧誘しなきゃいけないでしょ?」
「それはどうだろうな、別の問題だと思うが」
「どうだろうなじゃないよ。どうすればいいのさ」
「とりあえずポスターでも描けばいいんじゃないか」
「やっぱり他人事みたいな言い方するよね、副部長」
「まあ、偉い立場の奴が積極的じゃないとな、こういうのは」
「そりゃそうだけどさ」
寂しげな瀬尾の表情を見ると、溜息をつきたくなる。
本当に俺はこいつの容姿に弱い。
どうしたものかな、と思ったところで、当の彼女がやけになったように声をあげた。
「じゃあいいよ。わたしひとりでポスターつくるから」
「いまさら効果はないと思うけどな」
「おかしいな。わたしの記憶が正しければ、ポスターって言い出したのは副部長だったと思うんだけど」
そういえばそうだった。うっかり本音が出てしまった。
いかにも文句があるというふうに睨まれると、さすがにいたたまれない。
「ところで、ポスター作り、手伝ってくれるんだよね、副部長?」
「瀬尾、俺トイレ行ってくるわ」
逃げるなこのー! という間延びした声を背後から飛ばされながら、俺は部室を離脱した。
帰りにジュースでも買ってきてやることにしよう。
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