ウソウソの森
凪司工房
敬愛するお兄様へ
お兄様。
クレールはそっと部屋に忍び込み、そう呼びかける。窓からの月明かりは白く整った寝顔を闇に浮かび上がらせ、その造形美をまるで彼女に独り占めしてもいいのだよと
その亜麻色の髪が、
――お兄様は私の本当の気持ちを知らない。
血の繋がった兄妹で愛し合うなどということは、この国では死罪に相当する。小さい頃からあまりに仲が良く、いつも二人で寄り添っていたこの兄妹のことを心配し、両親だけでなく、友人やその親たち、またはまるで無関係な肉屋や八百屋の主人までもが、二人に「決して愛してはいけないよ」と言った。
けれど、大切に思うことと、愛との違いを、誰一人として教えてはくれない。
だからクレールは表ではいつも嘘の感情を口にした。
「別にお兄様のことなんて何とも思っていません。いくつになったと思っているんです? わたしはもう来月で十六になるんですよ。結婚だって許される年齢なのですから」
町外れの川を渡った先に、黒く広大な森があった。禁断の森と云われ、決して入らないようにと注意をされていたが、クレールは知っていた。修道院の友だちに教わったのだ。大人たちはあの森が何でも嘘にしてしまう魔女の森だということを、子どもたちに黙っているのだと。
――お兄様が結婚なさる?
その話を耳にしたのは、クレールが誕生日を迎える十日ほど前のことだった。
両親は兄を良家の次女と結婚させて、少しでも貴族としての地位を上げたいのだ。そんなつまらないことに兄が使われるのが我慢ならなかった。
だからその夜、いつもしているように兄の部屋に忍び込むと、クレールは寝息を立てている彼の肩を揺すって、こう言った。
「お兄様。以前、星を見せてくれると約束をしたのを覚えているかしら」
「ああ、クレール。けれど夜は寒くて暗くて恐いと、泣いていたじゃないか」
「もう夜を恐れる小さな子どもではありませんよ。いつまでもわたしを子ども扱いしないで下さい」
「そうか。そうだな。十六になれば、もう立派な女性だ」
「そうです」
兄の微笑みはいつも優しい。クレールは兄の手を取ってベッドから起こすと、外套を一枚兄へと渡し、そっとドアを開けた。
二人で小さい頃からしているように両親に気づかれないよう、足音を殺しながら家を抜け出る。
夜の世界には闇と星と静寂が広がっていた。
「クレール。待っておくれ。そちらに行くとあの森がある」
「ええ、分かっております」
「森には入ってはいけないと、母様たちがいつも厳しく言っている。森は危険だよ」
「危険というのは嘘なんです」
「嘘?」
「はい。森にはね、大人たちが子どもに隠したがっている、ある秘密があるんです。それを見てみたくありませんか?」
兄は“秘密”という響きに弱い。いつも謎掛けや気になることを放ってはおけないのだ。
「どんな秘密なんだろう」
「とても大切なものだそうですよ」
クレールは兄の手を引き、森に急いだ。
森は明かりなしには歩けないほど、漆黒だった。それでも今日は月明かりが助けてくれる。
家への戻り方も分からなくなった頃、クレールは振り返り、アンソニーを見た。ちょうどぽっかりと開けた場所で、月明かりが二人を照らしている。アンソニーの顔はよくできた人形のように美しい。
「ねえ、お兄様。わたしはお兄様と結婚がしたいのです。お兄様は、どう思われますか?」
「クレール。兄妹で結婚はいけない。そう教わっただろう?」
「でも、わたしとお兄様は本当の兄妹ではないんですよ?」
風が抜けた。
「ああ、そうだ。血の繋がりはないんだったね」
兄の、いや、兄であった男性は優しく微笑し、クレールに手を伸ばす。
「アンソニー」
「クレール。僕にはね、ずっと大切に想っている人がいた。けれど、ある事情からその想いは捨てなければならなかった。でも、それは自分の本当の気持ちに嘘をついていたということだったんだ。今分かったよ。クレール。僕は君が好きだ。愛している。一緒に暮らそう」
「嬉しい」
クレールはアンソニーの細く綺麗な手を取る。けれど、その温度に触れた時にふと考えてしまったのだ。
――その気持ちは、本当なの? それとも嘘なの?
二人の目の前を
「どうしたんだい、クレール?」
「いつから、本当が嘘になったんだろう」
「何を言っているんだい?」
「ねえ、お兄様。その気持ちは、本物なの?」
「ああ。ずっとクレールを愛していたんだ。もう君を離さない」
違う。これはお兄様ではない。
クレールは抱きしめようとする兄を突き飛ばし、漆黒の中へと逃げていった。
翌日、森の中で眠るようにして亡くなっているクレールとアンソニーの兄妹が発見された。この森は何もかもを信じられなくしてしまう嘘だけの森。ウソウソの森と呼ばれていた。(了)
ウソウソの森 凪司工房 @nagi_nt
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