不良少女と女教師
お餅。
救い
私は今,何か間違ったことをしているのだろうか。
「ミナト、先生がわざわざ来てくださったよ」
不良少女ミナトの兄が、二階に向けて声をかける。2階には、引きこもったその生徒がいる。いや、今は通学できていないのだが。
兄は私をリビングに通し,お茶とお菓子まで出してくれる。本当にしっかりした兄だ。だからこそ、ミナトは自分の中の苦しみを誰にも吐き出せないのかもしれない。
「あの、先生。本当に申し訳ありませんでした」
考え事をしていると,急に兄に土下座をされた。
「あの、顔を上げて下さい。私は別に,ここに怒りにきたわけじゃありませんので」
静かに返すと,兄は顔を上げる。泣いていた。
本当に,良い人だと思う。
「だって、先生、ミナトのせいで、左目を」
私は左目の眼帯にそっと触れる。
今の技術ならば,違和感のない義眼も作れる。それに、両目が見えないわけじゃないのだ。
そう弁解しようとしてやめる。今までそのように弁解した人の中で,そうですかじゃあ大丈夫ですねと笑顔になった人はいなかった。
この人のいい兄のことだ。言ったって逆効果かもしれない。
あえて黙っていると、二階からがたんと物音がする。
「あの子、ずっとあんな調子で塞ぎ込んでいるんです。友人が来ても、あれを友人と呼べるのかはわかりませんが…とにかく、誰が行ってもドアを開けてくれないんです」
兄は苦悩を顔に浮かべる。
あれは、二ヶ月前のことだった。校舎前の門で喧嘩を売られていた中西ミナト、高校一年生が、急に相手を殴り飛ばして発展した事件だった。
ミナトはカバンからカッターを取り出して相手に突きつけた。相手は逃げ出し,それを追跡しようとしていたところに私が居合わせた。
私は彼女らを止めに入り、ミナトのカッターによって左目を負傷した。
その時の血の匂いは今でもはっきり覚えている。
私の左目はもう光を認識することなどない。
次の日、ミナトと相手は処罰を受け,私は入院した。
そしてやっと昨日,私は帰ってきたのだ。
「…2階に上がらせていただいてもよろしいですか」
そういうと、兄は心配げな顔を浮かべながら頷いてくれた。
本当に優しい人だ。
階段を上がると複数のドアがあって、一つだけに、前にトレーが置かれている。兄が毎食のご飯をここに置いているのだろう。どれだけ食べているのかはわからないが。
どのように接するべきだろう。わからなかった。私も教師経験が深いわけじゃない。非行をする生徒の気持ちを完全にわかってあげられるわけでもない。でも、ここには私がこなければならなかった。
悩んだ末、小さく咳払いをしてこちらの存在を知らせた。
「…ミナトさん、私です。阿部キコ。あの時居合わせて左目を負傷した教師です」
濁さずにすっぱりと言いきってしまった。まずかったかなと一瞬思った時,ドアの向こうで何か物音がする。
弱々しい呻き声と、スマホが何かが落ちる音。
どうして引きこもっているのかと思っていたが。子供っぽい癇癪を起こしていると思っていたが。
違うらしい。
そっとドアに近づく私は、まるで野良猫に近づいているようだ。
「少しだけ、お話ししてもいいかな」
そっと、囁く。もちろん返事はない。
ないのはわかっていたのだが,やはり言い出しづらくなって、黙ってしまう。沈黙ばかりが流れる。
こうしていても埒が開かないのはわかっている。しかし、高校生という扱いが難しい年齢の学生にどう接すればいいのか、正解はないような気がした。下手をすれば今以上に彼女を傷つけてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
自分がなぜ教師になったかを思い出す。自分は,誰かの寂しさを少しでも和らげたいと思ったのだ。
息を呑む。
「…こっ、これから言うことは、別に聞かなくてもいい」
心臓がバクバクする。綱の見えない綱渡りをしている気分だ。
「あー、えっとだな、わた、私は」
言葉がしどろもどろになる。頭が真っ白になってくる、何を言おうとしたいたんだっけ。
わたわたしていると、小さく声が聞こえたような気がした。
帰って。
弱々しい声だった。
沈黙が無力感を煽る。帰った方がいいのかもしれない。ここで彼女をヘタに刺激するのは逆効果かもしれない。
自分の自己満足で、教師ぶった説教で彼女をますます追い詰めるのか?
本当は誰よりも泣きたい少女を?
胸が苦しくなる。自分もそうだった。
学生の頃の自分も、一人で独りだった。
そんな時につたなくてもなんでもいいから、何か言ってくれる人がほしかったのだ。
やっぱりここで引いちゃいけない。
「ミナトさん。私が言いたいことを言います」
彼女が抱く莫大な恐怖の闇に手を突っ込んで、引き摺り出すのだ。
それができるのは今は私しかいない。なんの根拠もないつくった自信を胸にして,私はドアにてのひらをそっと置いた。
「あなたの世界はとても狭い」
自分でも堂々とした声が、意外だった。私はこんな風にはっきりとものを喋れたのかと思った。
「今はまだ、このドアより向こう側の景色は見えていない。でも、それも今日までだ」
そうだ、どれだけ下手くそだってよかった。
「これからあなたは、ドアの向こうの世界をやっと見るんだ」
こんな風に言ってくれる大人が私にも必要だった。
「私と一緒に、見てみませんか」
ドアに額を寄せる。声の断片でもいいから届いてほしい。そうして彼女が選択肢を増やせればいい。少しでも明るい方へと伸ばす手を,私が掴み取りたいのだ。
だって、彼女は私なのだ。
「一緒に、広い世界を見ませんか。あなたの痛みはいろんな人に会うことで少しずつ和らいでいく。だからもう大丈夫だ」
胸の中がかっと熱くなってくる。馬鹿な、泣いてるのか、私。
「もう…大丈夫だから…」
気がつくと床が雫で濡れている。ハッとした時にはもう涙やら鼻水やらが垂れていた。
「あ、あれ、なんで…!?」
焦ってハンカチを探す…しまった、鞄は一階だ。
弱っているとがちゃりと音がする。
扉の向こうからティッシュ箱を持った腕だけが見えている。
私の心までパッと開かれたような気がした。
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