彼の人からもらったもの〜冬の館の貴婦人〜
青樹春夜(あおきはるや:旧halhal-
第1話 彼の人からもらったもの
もうすぐ春が来ようという頃なのに、振り返ればそこには真っ白な雪に覆われた寒々しい山が見える。
視線を戻せば目の前に濃紺の海。
——霞んで見えるのは
船に乗れば数時間で着く島々にさえ、彼は行ったことが無かった。
砂浜に時折流れ着く品々を拾って、珍しい物があれば街へ持って行く。青年は日々をそうやって過ごしていた。
不便はない。
いくら冬の島だといっても、何も無いわけではない。なんなら夏に雪遊びをしようという人々が訪れる観光シーズンだってある。
青年はもう一度振り返って永遠に溶けない雪山を見た。
——いつかまたあそこに行けるだろうか。
子どもの頃、一度だけ冬の館に行った事がある。菓子職人だった祖父に連れられて、菓子を館に納めるために行ったのだ。
季節は覚えていない。
ただ一面の銀世界だけを覚えている。
永劫の冬の世界へ踏み入ったのはそれが初めてだったから、子どもの彼はただ嬉しくてはしゃいでいた。
いつもは吹雪で閉ざされている館も、
気がつけば音の無い真白な世界。
館の裏手に迷い込んだのだろうか、無人の景色に彼は急に怖くなって、自分の足跡を辿って引き返そうとした。
そこに——。
「誰ぞ?」
氷よりも冷たい声が降って来た。
見上げると、雪の結晶で作られたかた思うような繊細なレースをひらめかせて、長い艶やかな黒髪に雪の肌、真っ赤な唇の女性がふわりと降りて来た。
子ども心にすぐにわかる。
——人では無い。
それに人外の美しさ。
これはきっと……。
「館の主様……?」
その言いようが面白かったのか、美しい人は顎をあげて笑った。その高圧的な姿さえ美しい。周りにきらきらと雪の粉が舞っている。
「
——やっぱり。
彼は慌てて帽子を取り頭を下げる。
「良い良い。今日来た客人の連れか」
雪の貴婦人は
「あっ、どこに行っていたんだ?」
館の主に連れられて戻ってきた孫を見て、菓子職人の祖父は慌てて駆け寄ってきた。雪かきをしていない場所まで来ると雪に足を取られて、途端にもたもたとする。
「構わぬ。今そちらへ行く」
館の主の手を煩わせたことに、祖父は恐縮しきりである。今にして思えば、祖父は館の主の
祖父に引き渡される時に、貴婦人は納品される品々の中から焦茶色のくまのぬいぐるみを手に取った。
「持ってゆくが良い」
かわいらしいぬいぐるみを手渡されて、彼はぼうっとなったまま後のことは覚えていない。
故に、この島を出て行けない。
青年はため息と共に雪山から目を逸らした。
冬の館の主は、同じ職人、同じ店を二度と呼ばない。毎年異なる者を呼んで毎年異なる菓子や細工物、織物着物さまざまな物を買い取るのだ。
だから青年は二度と館へは行けなかった。
祖父の跡を継いでいれば、別の職人として呼ばれたはずだが、夢見がちな青年は日々の修行を嫌ってその道を選ばなかった。
両親はぬいぐるみに執着して将来を定かにしない息子を
その時の彼の絶望ぶりは街でも噂になった。何せくまのぬいぐるみを探してあちこち探し回ったのだから、その奇行が人の口に登るのも無理はない。
結果、彼は街の廃品や海岸の漂着物を拾いそれを売って糊口を凌ぐ生活となってしまった。
それでも——。
泥に塗れてもなお、彼は純白の世界に憧れる。
とぼとぼと海辺を歩きながら、
その目の端に。
白い波に揉まれた茶色い何かが映った。
はっとして駆け寄ると、それは海水を吸ってぐずぐずになった焦茶色のくまだった。
それがあの捨てられたぬいぐるみに見えた彼はそれを拾い上げた。
「帰って来てくれたんだね」
青年はそれを抱きしめたまま、冬の館に向かって歩き出す。
今日は
空は晴れ、館の門は開くだろう。
青年は雪山を目指して力強く歩いて行った。
——その後、彼の姿を見た者はいない。
『彼の人からもらったもの〜冬の館の貴婦人〜』完
彼の人からもらったもの〜冬の館の貴婦人〜 青樹春夜(あおきはるや:旧halhal- @halhal-02
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