ふくしゅうぬいぐるみ
たつみ暁
ふくしゅうぬいぐるみ
びしゃびしゃに濡れた制服で、とぼとぼと家路を行く。道ですれ違う人達の好奇の視線には気づいているが、もう、どうでもいい。
『あっはは! 汚いゴミは掃除しないとねえ!』
私を取り囲んでホースの水をぶちまける、あの子達の嫌味な笑顔とキンキン声が脳内を巡る。
中学にあがって半年。クラスに馴染めなかった私は、当然のように、女子グループの輪から弾き出され、「暗い」「キモい」「バカみたい」と陰口を叩かれた。それが実際の殴打になるのに、さほど時間は要らなかった。
筆箱が消えた。次は教科書。眼鏡が壊され、財布からお金が抜き取られ、スマホには勝手にロックがかかって、修理を余儀無くされた。
『あんたがウジウジ暗そうにしてるからいけないのよ! そんなもん、しゃっきりして自分で解決しなさい!』
母は昭和の根性論信奉者で、どこかに相談するなんて恥だと思ってる。父は朝早く家を出て夜遅く帰ってきて、風呂に入ってダイニングに現れたかと思えば発泡酒のタブを開けて、興味も無いテレビ番組を見ている振りをする。それが家族に対する関心の度合いだ。
どうせ家に帰れば、また母に、『クリーニング代がいくらすると思ってるの!? その間に着る服どうするの!? まったく、あんたはグズグズしてるんだから!!』って、ヒステリーを浴びるのが目に見えている。深々と溜息をついた時。
「ねえ、おねえさん」
横から不意に声をかけられて、私はびくうっとすくみ上がった後、のろのろと声の主を見下ろしてしまった。
ゴシックロリータ、というのだろうか。今やもう流行も下火になりつつあるお洒落服に身を包んだ、小学校高学年くらいの女の子が、長く艶やかな髪をさらりと肩に流して、小首を傾げた。
「ふくしゅう、したくありませんか?」
「はい?」
こんないたいけな子供を使ってまで、怪しげな勧誘をしている連中がいるのだろうか。
「お嬢ちゃん。誰に頼まれたか知らないけれど、いきなり人にそんな物騒な事を言っちゃあ、駄目よ」
「でも」
女の子はくすくすと、口元に手を当てて笑いながら、上目遣いに私を見てくる。
「おねえさんの方が、ぶっそうなこと、考えてる」
どきり、と。心臓が脈打つ。
たしかに、私はあいつらに復讐してやりたい。あいつらがことごとく、酷い目に遭って、死んでしまえば良いとさえ、思っている。
「ふくしゅうぬいぐるみ、あげる」
そんな私の心の中を見透かしたかのように、女の子はにっこりと微笑んで、彼女の顔の大きさのくまのぬいぐるみを取り出した。茶色い毛並みと赤い瞳を持つ、一見愛らしいただのぬいぐるみだ。
「夜中の零時に、ふくしゅうしたい相手の名前をこの子に伝えて。この子が、おねえさんの代わりにこらしめてくれるから」
要る要らないの問答も無しに、私の手にぬいぐるみが押しつけられる。私が唖然と立ち尽くしている間に、女の子は軽やかに身を翻し、道の向こうへと歩み去ってゆくのだった。
予想通り母親にガミガミ叱られたその夜。
デジタル時計が十一時五十九分を示す室内で、私は学習机の前に座り、目の前のくまのぬいぐるみと向き合っていた。
ただの子供の悪戯。可哀想に見えた私への、ただの冷やかし。そう思いながらも、心拍数が上がるのを抑えられない。
時計が午前零時になる。
「ふくしゅうぬいぐるみ。あなたがもし本物なら」
私は、私をいじめる筆頭に立つ、一番嫌いな女子の名前を、ぬいぐるみに囁きかける。
ぬいぐるみの赤い瞳が、きらりと光った気がした。
翌朝。
クリーニングに出した制服の代わりに、ジャージを着て登校する。だが、私をいじめていた女子達は、教室に入ってきた私に気を向ける事も無く、青い顔を突き合わせて、ひそひそと話し合っていた。
「両目、失明だって」
「ドライヤーが火を噴いて」
「こわーい」
横目で窺えば、私がぬいぐるみに名を告げた女子が、輪の中心にいない。まさかの思いが頭の中でぐるぐる回っている。
はじめこそ恐怖を覚えたが、あのぬいぐるみが、女の子の言う通り、本当に、いじめっ子を懲らしめてくれたなら。そう思うと、じわじわと、興奮と、快感が込み上げてきた。
その日の零時。
私は別の女子の名を、ぬいぐるみに告げた。
次の日、その女子は階段から転げ落ちて、肩を粉砕骨折したと、彼女の仲間達が気味悪そうに話していた。
また別の日に、別の女子の名を告げる。
その女子は内臓を傷めて救急車で運ばれていった。
「呪われてるよ」
「怖いわこれ」
仲間がどんどん受難して数を減らし、恐怖に怯えるいじめっ子達を見るのは楽しかった。私は毎晩、憎い連中の名をふくしゅうぬいぐるみに告げ、そして遂に、全員を淘汰した。
私の気持ちは晴れやかだった。もう、私をいじめる奴はいない。これからは、私が私らしく振る舞える。
その時、これはもう必要無い。
私はぬいぐるみをゴミ箱に放り込む。
そして次の日、燃えるゴミは回収されていった。
それから半年後。私は進級し、新しいクラスに馴染んで、一緒に遊ぶ友達もできた。
そして、その輪に入ってこない、いかにも根暗そうな子を標的に、文房具や教科書を盗んだり、机に落書きしたり、財布からお金を抜き取ったり、靴を校庭の池に放り込んだりした。
相手が何も言えずに立ち尽くし、両手で顔を覆って肩を震わせるのを、仲間達と共に物陰から観察しては、くすくす笑いを弾けさせた。
そんな、とある夜中。
デジタル時計が零時を示そうとしているので、部屋の電気を消して寝にかかろうとした時。
スイッチに触っていないのに、電気がふっと消えた。蛍光灯の寿命にはまだ早い。かちかちと、スイッチを押していると。
「おねえさん」
いつかどこかで聞いた、でも、家の中で聞くはずの無い声に、ぎくりと身を固める。のろのろと振り向けば、カーテンの隙間から差し込むわずかな月光に照らされて、私にふくしゅうぬいぐるみを渡した少女が、何故か私の部屋の中に立って、可愛らしく小首を傾げていた。
「だめだよ」
何が駄目なのか。駄目なのは勝手に人の家に上がり込んだそっちではないか。暑くもないのにだらだら汗が伝い落ちる。
「ふくしゅうぬいぐるみは、この世の弱者に寄り添うもの。おねえさんは、それを忘れて、弱者を虐げる側になっちゃった」
見た目の年齢にそぐわない言い回しをして、少女はくるりと手を回す。
そこには、捨てたはずの茶色い毛並みと赤い瞳の。
「ふくしゅうぬいぐるみが、あなたを恨むひとに代わって、おしおきをするよ?」
少女が実に嬉しそうな笑みを弾けさせる。
連動するかのように、動くはずの無いぬいぐるみが、見る見る内に巨大化し、赤い瞳を光らせ、鋭い牙の並んだ口をにたりと笑いにかたどるのを、私は恐怖に身を震わせながら見つめることしかできなかった。
ふくしゅうぬいぐるみ たつみ暁 @tatsumi
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