胃の中のクジラ 2


華寿海が、面倒くさそうに口を開いた。


「…蘭滋(らんじ)のとこにいるクジラか?」

「え、蘭滋さん?」

蘭滋さんは街に住んでいる学者で、僕たちの数少ない知り合いだ。僕たちが街に行くときはお世話になっているし、僕に色々な知識を教えてくれる人でもある。「落花流水」という言葉も蘭滋さんに教えてもらった。


「そうよ。蘭滋先生が、貴方たちを呼んでるわ」

「そうなんだ!久しぶりに会いたいなー!!」

「……はぁ」


「で、どうされますの?」

「どうする?華寿海」

「……、行くよ」

「やったー!!」


「では、絵都(えつ)さんは私に乗って」

「乗る?」

「あ、そうね。私が飲み込んだ方が早いわね」

そう言うと、僕を咥え、舌でお腹の奥まで追いやった。

身体が持ち上がり、何回転もして、やわらかいところに流れ着く。

「え!?」

声を出すと、透明なドームの中で声が反響する。


「絵都さんは私が運ぶわ。そこでじっとしてらして」

「うん…」

「華寿海さんは自分で移動出来るのよね?」

「ああ…」

「では、蘭滋先生の庭まで」


そう言った次の瞬間には、森を抜け、僕は芝生の広がる庭に浮かんでいた。

「うわー!!これ、瞬間移動?」

「そうね。貴方は初めて?」

「うん。華寿海は僕を連れては移動出来ないから」

「ええ、聞いているわ…」

華寿海は飛ぶことも瞬間移動も出来るが、僕を連れてそれらを行うことは出来ない。

遅れて華寿海が庭に現れた。

「本当に、二人だけでずっと居るのね」


「絵都、出て来い」

「分かった!ええと…」

「口の方から出て良いわよ」

そう言うと、背後から水流のようなものが身体を包んで、口元まで僕を運んだ。

「…すごい」

「良かったな」

華寿海が差し出した手を取って、庭へと飛び降りた。


「何か、また広くなってるね、この庭。あの向こうとか、僕見たことないと思う」

「ああ、典姚(てんよう)が広くしてるんだろうな」

この庭は来るたびに広くなっている。今僕たちが居る芝生の向こうには色とりどりの植物が広がり、見たこともない物体が至る所に置かれている。顔の形をした石、どこかの神社の鳥居、大きな牙を持つ動物の剥製。

それらは、この家の主のコレクションだ。彼の友達の神父が、好奇心旺盛な学者の友人のために、世界中の珍しいものを集めてはこの庭に運び込んでいるらしい。


「蘭滋はどこだ?」

「ええと、温室の方かしらね」

「温室って?そんなのあったっけ?」

「そっちの角を曲がったら透明の建物が見えてくるわ」

「あー、あの変なところか」


「あれ、君は一緒に行かないの?」

「ええ。私、ここの芝生を気に入っているから」

「へぇ、そうなんだ」


この広い庭で、唯一何も置かれていない芝生を好きだと言うクジラと別れ、僕たちは温室へ向かった。




透明の重い扉を二つ開けると、湿気が身体に張り付く。水の中に入ったかのように、声が通りにくい。

「うわー、ムシムシする!」

「あいつは、何でこんなところに居るんだ…」

「蘭滋さーん!」

温室の中も、僕の見たことが無いもので溢れている。

「ここって何のための部屋なんだろ」


迷路のように配置された植物の中を歩いていくと、大きな机で本を読んでいる背中が見えた。

「居た!蘭滋さーん!!」

「ああ、もう来ましたか」


「こんにちは。いらっしゃい、絵都君、華寿海」

「こんにちは」

「何の用だ?」

「まぁ、ここを出て家の中で話しましょう。まさか華寿海が温室まで入ってくるとは思いませんでした」

「あ、そうだ。華寿海大丈夫?」

「はは、僕の温室の方が負けてしまうから大丈夫ですよ」



温室の外は涼しい風が吹いている。来た方とは反対の道を通って、複雑に入り組んだ庭を抜け、見たこともない玄関から蘭滋さんの家に入った。

家の中はまた雰囲気が違って、不思議であることには変わらないが、庭のように派手な印象は無く、ひとつひとつの物がひっそりとそこに佇んでいる。

「相変わらずすげぇ家だな」

「うん。でも家の中はそんなに変わってないねー」

「家の中には必要なものだけ入れていますから」


「この部屋にどうぞ。お茶を淹れてきます」

「…茶なんて淹れるやつじゃないだろ」

「まぁ良いでしょう?絵都さんとは久しぶりなんですから。呼んだのはこちらですし、おもてなししたいのですよ」

そう言って、蘭滋さんは部屋を出て行った。

僕たちは、本棚の前のソファに座ってお茶を待つ。雑多な部屋の中で、ソファの前に置かれた低いテーブルは唯一片付けられ、細い花瓶が置いてあった。


「そうだ。蘭滋さんにあの寺の話してあげよう」

「やめとけ…」

「どうして?」

「こんな近くの森に変な寺があるなんて、あいつが知ったら碌なことにならない。放っておいた方が良い」

「ああ、橄欖(かんらん)さんみたいになったら危ないもんね」

「…蘭滋じゃない。危ないのは寺の方だ」

「え?」

「……あの寺は、あの寺だけで完結しているだろ?」

「ええと、山奥で誰にも知られずにああいうことをしているってこと?」

「まあ、そうだな」


「それに、橄欖も自分のしていることに納得している。関わらなければ害は無いんだから放っておけ。それがあいつらのためだろう。蘭滋の過剰な好奇心は、あの寺にとって危険だ」

「『知ることが出来ないものは、知らない方が良い』ってこと?」

「ああ、そうだ」

華寿海が僕の頭を乱暴に撫でる。


「知ることが出来ないものは、知らない方が良い」というのは、華寿海の物事への向き合い方をよく表している。

その一方で、蘭滋さんは知識欲の塊で、「知らない方が良い」ことなどきっと彼の周りにはない。

考え方が正反対だからか、華寿海は蘭滋さんのことを苦手そうにしている。蘭滋さんはそんなことが無さそうなので、雰囲気が険悪になることはなく、僕はこの二人の関係をむしろ面白いと思っていた。


「分かった。言わないでおく」

「そうしてくれ」


「お待たせしました」

ワゴンを押して、蘭滋さんが部屋に入ってくる。ワゴンの上には湯呑みの乗ったお盆が置かれていた。




「絵都さん、お久しぶりですね。会えて嬉しいです」

蘭滋さんは重そうな椅子を引いてきて、僕たちの向かいに座る。

「僕も!まさか、クジラの幽霊が伝言してくるとは思わなかったけど」

「ははは、華寿海に聞いていませんでしたか?」

「ああ、布団を貰った時にはもう居たんだ」

僕たちは、森で生活をする上で必要なものを蘭滋さんたちから貰っている。あの寺で生活を始めた時も、華寿海が街まで跳び、彼らから布団などを貰ってきてくれた。


「今回もしばらく泊まっていきますよね?」

「…ああ」

「やったー!またあっちの部屋の本読んでも良い?」

「もちろんです」


「あ!宝石図鑑ありがとう!すごく面白かった」

「そうですか、それは良かったです。でも宝石図鑑なんて、どうして急に読みたくなったのですか?」

「え、ええと…、森で綺麗な石を見つけたから、宝石のこと知りたくなっちゃったんだ…」

「はは、すみません。ついつい聞いてしまいましたが、知りたいという欲に理由は要りませんよね。まぁ、そのために絵都さんの動機も知りたくなってしまったのですが」


「蘭滋さんは?今はあの子のことを勉強しているの?」

「そうですね。あの種のクジラについてはほとんど知っているので、今はラー君が経験した海の中の知識を得ていっています」

「『ラー君』?」

「……」

「ええ、クジラの『ラー君』です」


「良い名前でしょう?」

「そうだね」

「絵都、違うと思ったら言っていいんだぞ」

「ううん」


「あの子、…ラー君が海のことを話してくれるんだ。良いなー、僕も聞いてみたい」

「ああ、違いますよ」

「え?違うって、じゃあどうやって」

「おい、…蘭滋」


「ははは。そういえば、僕が知識を得る方法を教えたことがありませんね」

「読書とかじゃなくて?」

「……」

「そんなに睨まないで、華寿海。僕たちは人間です。何でも知りたい生き物なんですよ」

「ん?」


「そうなんですよ、絵都君。僕は本を読みますが、それ以外の方法でも知識を得ています」

「それ以外?」


「ええ、絵都君、僕は世界中のことなら何だって知りたいです。でも読書だけでは、世界中のことを知るのにも限界がありますよね。読んだ文字の分しか頭に入れることが出来ないというのは、時間の効率が悪いです」

「うん。それはすごく時間がかかると思う」

「ええ」


「そこで、例えば『ある存在が持っている知識の全て』を得ることが出来たら?これは『記憶』と言っても良いですね。『記憶』は、ある存在が時間をかけて得た知識の集積ですから、それを得られるというのはとても効率が良いです。それに、この世は本になっていないことの方が多いですから」

「そうだね、でも…」


「肉食動物は、草食動物を食べることで、植物から得られる栄養を摂っています。草食動物に、自分の代わりに植物の栄養を摂ってもらっているのですね」

「え、……」



「ですから、僕も食べるんですよ」


「……」

「僕は今、ラー君を食べています」



———私を召し上がりに来ない?


『過剰な好奇心は危険だ』

華寿海の言葉の意味が、なんとなく分かった気がする。

好奇心は、こんなにも人間を強くするのだろうか。

これは果たして、強いのだろうか。

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