カモミールの滝 5
3を読んでいないと、意味が分からないと思います
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「あら、どうされました?」
冴仁衣(さにい)さんの声が聞こえる。
「貴方を待っていた」
華寿海(かすみ)の声もする。
重い瞼を開け、ゆっくりと身体を起こすと、そこは布団の上だった。
「絵都(えつ)は寝ている。今のうちに話がしたい」
「ええ、分かりました」
今も、滝の水が二人の声を伝えているのだろう。華寿海がそう話したので、僕は出て行くことができなくなった。
洞穴の入り口に座る。
「まず、俺は通りすがっただけの神だ。貴方たちのことを禁忌などと思うつもりもないし、貴方たちの選択について思うこともない。それに長いこと居させてもらった恩もある。ただ、…」
「絵都さんのためですよね」
「…まあ、そうだな」
「あいつが気にしている。それだけだ」
「ふふ。羨ましいです」
「昨日の話は聞いてらっしゃったのですね?」
「ああ、意識は起きていたからな」
「そうでしたか。意識まで眠らせる必要がありましたね」
「出来るのか?」
「ええ」
「池の底で骨になっていたのは里禹馬(りうま)だな?」
「はい」
「それを触って、絵都が突然眠った」
「…そうでしたか」
「今は問題なく寝ている。後で起こしてくれ」
「分かりました」
「お前が骨にしたのか?」
「私は眠らせただけです。骨にしたのは魚たちでしょう」
「そうだな」
「それに、眠らせたというのも正しい表現ではありませんね。私は起こさなかっただけです。流れていったカモミールの花に、里禹馬が当てられてしまったのでしょう。ある夜、突然眠ってしまいました」
「はは、まあ良い。それは貴方だけの『秘密』にしておけ」
「ええ」
「待てなかった、のか?」
「いえ、私は今でも待っていますよ」
「…何を?」
「里禹馬を」
「私の方から行くというのは、あの人の信念に反するのでしょう。本当はその方が簡単なのですけどね。実際、飛ばさないように気を付けていても、私の種は崖の下へ、里禹馬の元へ飛んでいってしまいます」
「そのようだな」
「ロマンというものですね」
「まあ、ロマンも素敵なものですからね。それで私は待ち方を変えてみようと思ったのです」
「『待ち方』?」
「ええ、あの人が生まれ変わったら、滝が登れるような特別な姿で生まれてくるかもしれないでしょう?一度では無理でも、何度も繰り返せば、或いは」
ペリドットで出来た寺を思い出す。橄欖(かんらん)さんも同じようなことを言っていた。
「それは、貴方にとって『里禹馬』なのか?」
「はい。里禹馬の死骸を食べて、身体に取り込んでくれるのであれば、それは里禹馬です。この池は、その中だけで魚たちの生死が完結しています。里禹馬が現れるまで、皆が里禹馬を守ってくれていますよ」
「そうか」
「『代理』というのはそういうことか」
「ええ」
「この滝は、もうほとんど貴方のものだな。花など流すまでも無いだろう」
「もちろん、里禹馬が還ってきたら返します」
「それに、これは私の愛のメッセージだとお伝えしたはずです。昨日の話の中で、私が嘘をついたのは『里禹馬が、私にこの滝の代理を任せて突然どこかへ行ってしまった』という部分だけですよ」
「ああ…、そうだったな」
「還ってくるまで、私の手で、私の中で、眠っていれば良いのです」
洞穴の入り口で、滝が落ちてくるのを見上げている。
初めて崖に登って上から見た時、この滝はなんて自由に落ちていくのだろうと思った。
激しくて、清々しくて…
もう、そうは思えなかった。
洞穴を出て、崖の上まで登っていった。
「冴仁衣さん、華寿海」
「絵都さん、どうして…」
「まさか、起きたのか?」
「うん。起きてた」
「そうか…」
「ふふ、『絵都さんは別』と言っていたのはこういうことだったのですか?」
「…違う」
「え?」
「いえ、起きていたということは、聞いていたのですよね?」
「はい」
「それで、どうされましたか?」
「今日の分、まだ流してないよね?流す間、話してもいい?」
「ええ、もちろんです」
「俺は洞穴に戻ってる」
「ありがとう…」
「もう話したいことは話したからな」
そう言うと、華寿海は崖から飛び降りていった。
「華寿海さんは、絵都さんのことがとても大事なのですね」
「そうだね。僕も華寿海のことが大事」
「そうですよね」
冴仁衣さんが、今夜も花を流し始める。
ひとつずつ、丁寧に流していく。
「僕カモミールの花を見た時、変わったバランスだなって思ったんだよね」
「ああ、そうですね」
「ごめんね…」
「いえ、」
「カモミールの花の、真ん中の部分があるでしょう?」
「うん。黄色い花粉のところ?」
「ええ、でもそれは花粉じゃないのですよ」
「え?」
「ふふ、その部分は細かいひとつひとつが花なのです」
「花!?この小さいの一個ずつが…?」
「ええ、花です。それも変わっているでしょう?」
「そうだったんだ」
「あ、それで最初、バランスが変わっているとは思ったんだけど…」
「はい」
「冴仁衣さんがこうして毎晩流しているのを見て、月に羽が生えてるみたいで綺麗だなと思ったんだよね」
「…そうですか。ありがとうございます」
「はは、目が覚めてから下の洞穴で話聞いてじっとしてたんだけど、これをどうしても今言いたくて、登ってきちゃった」
「ふふ、そうでしたか」
「今、何個目?」
「49個目です」
「ちょうど半分ぐらい?」
「そうですね」
「勝手なのは私なのでしょうね…」
また、花が冴仁衣さんの光る手を離れていく。
「殺して、生まれ変わるのを待って、これを『あの人を待っている』と表現するのは間違っていると、分かっているんですよ。」
——循環という物差で自分を計り出すと、循環から抜け出せなくなるんだよ。
「だから、私はきっと『待てなかった』のでしょうね」
「難しいですね」
「…うん」
「絵都さんは『日にちを数えると、数えた分の時間が大切になっていく』と言っていましたね」
「うん」
「私は、数えた分だけ、里禹馬と私のことが憎くなっていきますよ。ふふ、正反対ですね」
「冴仁衣さんのことも?」
「ええ、だって今の状況を選択したのは私です」
「でもね、憎くなる一方で、私も数えた分の時間が大切になっていくのですよ」
「それは、どうして?」
「私の手で、私の中で、里禹馬が眠っているからです」
「『私の中』?」
「ええ、私は今代理としてこの滝を守っています。薬草である私が、あと出来ることはこれぐらいですから。里禹馬は私に守られて、眠っているのです」
「私は、この滝と共に、いつまでも里禹馬を待っています」
「うん…」
「華寿海はね、『循環の中に身を置くと、循環から抜け出せなくなる』って言ってた」
「そうですね、私も抜け出せなくなってしまいました」
「でも、こんな滝の急流の中で、流されるものと流すものを区別しようとするのも無理だと思うんだ。水だって上から下に、地形によって流されているものだから」
「ええ」
「だから、冴仁衣さんが『水の流れ』の方になったんだよね。流される方じゃなくて、流す方に」
「はい、それが私の選択です。ですから後悔はありませんよ」
「…それで、こんなに苦しくても?」
「ええ、里禹馬を、愛していますから」
「もう後悔など、出来ないのです……」
冴仁衣さんの目から零れた涙が、滝に落ちる。滝の中に落ちた一滴の涙など、見分けることはできない。
最後の日の晩、その晩も僕は冴仁衣さんと二人で話をした。里禹馬さんのことには触れず、何でもない話をした。約束通り、冴仁衣さんはポプリを僕にくれた。
「これがポプリです。少し他の花の香りも混ぜて作りました」
「ありがとう!!すごく良い匂い!!」
「喜んでもらえて嬉しいです」
「もう一つ、お礼と言ってはなんですが、絵都さんについてお教えしたいことがあります」
「僕について?」
「はい。耳を貸していただけますか?」
「うん」
冴仁衣さんが口元に手を添えながら、耳元で囁いた。
「絵都さんは確かに人間ですが、華寿海さんと居ることで特別な力を得ているようです」
「え?」
「特別な存在になりかけている、と言った方が近いでしょうか。早い話が、絵都さんは半分ほど神様になりかけています」
「え!?」
「神様に近い存在、でしょうけどね」
「本当に?」
「ええ。私が華寿海さんを眠らせたのも、絵都さんが骨に触れて眠ってしまったのも、どちらも私の力によるものなのです。私の力は私にしか解けません。しかし絵都さんは自力で目を覚ましましたよね?」
「うん…」
「華寿海さんは強い神様のようですから、一緒に居ることでその力の影響を受けているのでしょうね」
「そうだったんだ」
「多分、華寿海は知ってるよね?」
「知っているでしょうね。絵都さんには知られたくなさそうでしたが、私が今教えてしまいました」
「そう…。でも知れてよかった、ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「明日の朝は、もう居ないんだよね…」
「はい」
「…寂しいな」
「ふふ、そうですね。私も寂しいです」
「でも私はずっとここに居ますから、いつでも遊びに来てください」
「良いの!?」
「もちろんですよ」
「ありがとう!!また絶対に会いに来るよ!!」
「ふふ」
「さあ、今夜はゆっくりお休みなさってください。明日から山の中を歩いていくのでしょう?」
「…分かった」
「お休みなさい、絵都さん」
「うん。おやすみなさい、冴仁衣さん」
次の朝、僕たちはこの滝を去った。
流す花、流れる水。
流す水、流れる花。
その区別に囚われてしまった滝を。
春を去らなければ、春を待つこともない。
春を去らなければ、
終わり
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