ベアの森のテディベア

直木和爺

第1話 森のテディベア

 ある日、私は森の中で熊に出会った。

 立ち上がったその体長はゆうに私を超え、とてつもない威圧感を感じる。

 疲れすぎて幻覚でも見ているのかと思い、目をこすってから顔を上げてみるも、熊はやはり私の目の前にいた。


 しかしその体は、何度かテレビやネットで見たことのある黒に近い茶色の硬い毛や、鋭い爪にシュッとした体躯ではない。

 茶色と白を基調とした丸々フォルムにつぶらな黒い目。全身を巡る縫い目と首に巻いた可愛いリボン。

 爪や牙といった凶暴なパーツは一つもなく、ただただ可愛らしいを体現したその姿。

 そう、ぬいぐるみの熊だ。

 そういや私も昔こんな感じのぬいぐるみを持ってたな。弟に首もがれて突然のお別れをしたけど。




「お? こんなところに人間とは珍しいな」




 ついでに言うと喋る熊だった。おいマジか幻聴まで聞こえやがる。

 しかもなんだろう、可愛くない。声が絶望的に可愛くない。なんかもう酒とタバコの匂いしそうな感じの声してるんだもん。全然可愛くないよこいつ。


 とりあえずあれだ。私が取るべき行動はあれしかない。

 三十六計逃げるに如かず。とりま逃げよ。


「えあちょ!? なんで逃げる!?」


 私は辛いOL時代に一つ学んだことがある。前時代的なおじさん上司との飲み会に参加してメリットが有るのは男性だけで、私のようなおとなしめの女性が参加してもセクハラの被害に遭うだけだということだ。

 森を徘徊しているこの巨大テディベアが前時代的な思想のもと私を性的に消費するかどうかは分からないが、私の過去のトラウマを連想させるあのおじさん声からは一刻も早く遠ざかりたかった。


「お待ちなさいお嬢さんンンッ!」

「ギャァァアア! 近寄るな変態熊! 誰かー! 助けてー!!」

「おぃい! だぁれが変態熊だゴラァッ! どっからどう見てもきゃわいいクマさんだろうがぁ!」

「テディベアはそんな呼気から基準値の10倍のアルコールが検出されそうな声してないんだよ! もっと高くて女の子みたいな萌え声なの!」


 全速力で森の中を逃げるも、最近ろくな食事もしてない上に精神的な衰弱。それに慣れない森の中だ。あっという間に追いつかれてしまった。

 モフ……という感触とともに手を捕まれ、そのフカフカのお腹に捕らえられてしまった。

 ああ終わった。これきっと犯されるわ。最後の最後がこんな結末だなんてつくづく私の人生最悪。


「ほぅら捕まえたぞ。もう逃さないからな俺の女神様っ」


 とてつもなくキモいセリフに虫酸が走る。


 ――う~ん、今日もいいおしりだねぇ。張りよし大きさよし形よし。最高だぁ。

 ――あんたさぁ、部長にあの態度はないわぁ。ねぇ皆ー? そんなんじゃこの会社でやってけないよねー。


 かつてのトラウマが蘇り、呼吸が浅くなる。

 嫌な記憶、怖い記憶、辛い記憶、苦しい記憶。それらが走馬灯のように頭の中を駆け巡って行く。

 あぁ、ホント最悪の人生だ。安らかに死ぬことも許されないなんて。


「……? おいどうした? お前呼吸が……。おいしっかりしろ!?」


 だんだん視界が狭くなってきて、世界は端から灰色のノイズに呑まれていく。

 グラグラと肩を揺らされて、少しだけ鮮明な視界の中心であのテディベアが心配そうな表情をしていた。……気がした。

 ぬいぐるみの表情なんて分かるわけないのにさ。


 それを最後に私は意識を手放した。





 ――





 次に目を覚ますとそこは草原だった。

 春の花なのだろうか、色とりどりの小さな草花が暖かな風に揺られている。

 程よい高さにある枕はふっかふかで、おひさまの匂いがした。


「ここは天国……?」

「いや、ベア草原だ」


 ……枕から声がした。

 瞬間、私はすべてを理解して疾風のごとく立ち上がると、ノールックで後ろ回し蹴りをかました。


「ぐぼぉ!?!?」


 きったねぇ断末魔とともにそれは草原を転がっていき、やがて停止すると鬼の形相で立ち上がった。

 というか表情分からないはずなのになんか分かるんだが。


「ちょっとぉ!? なんでいきなり回し蹴り!? 俺お前を助けてやったんだけどぉ!」

「助けるぅ? 犯すの間違いだろこのレイプ熊!」

「いやなんの話だ!? そもそも俺に生殖機能はないって!」

「お前みたいなやつは『俺、草食系だから』とか言って油断させてから襲いに来るに決まってる! よく考えたら草食動物は四六時中草食ってるじゃんか! 手当たり次第とかターゲット絞ってくる肉食系より質悪いわ!」

「いやマジで何の話ぃ!? 俺人間界のそういう常識? みたいなの分かんないんだけどぉ!?」

「ちょーっと顔がいいからっていきなりサシ飲みはありえないっつーの! エッチな下着みたいなスケスケの下心隠してから出直してこい!」

「……あれ? これ俺の話? 俺の話じゃないよな? あれじゃあなんで俺怒られてるんだ?」


 ひとしきり感情をぶちまけたらスッキリした。最近我慢してばっかだったから溜まってたんだな。あー清々しい。

 私の感情のサンドバッグになっていたテディベアを見ると、混乱した表情でワタワタしている。だからなんで表情分かるんだよ。



「……ていうかさ、お前さっき人間界とか言ってなかった?」

「え? 言ったけど、それがどうした?」

「いやどうしたじゃなくてさ。ここは人間界じゃないみたいな言い方だったじゃん」

「そうだけど」


 テディベアはキョトンと首を傾げる。

 あ、やば。仕草だけはクソ可愛いわこいつ。まじで声だけなんとかならんかなぁ。


「……てかはぁ? いや……、はぁ!? ここが人間界じゃない!? じゃあなんだって言うんだよ!」

「トイランドだよ。おもちゃの王国トイランド。人間界へ羽ばたくことを夢見るおもちゃたちの国」

「えぇ……? なにそれぇ?」


 なんかすごくメルヘンチックな設定が来た。トイランド? おもちゃの王国? 人間界へ羽ばたく? もう私メルヘン少女は卒業したんだけど。


「いや、いや! 騙されないッ! 私は人生に嫌気が差して死ぬために長野県の山奥に入っていったの。だからここは長野県のどこか知らない草原。そうに違いない!」

「はぁ……。その、ながのけん? っていうのがどんなところか知らないけど、ああいうのがある場所なのか?」


 そう言ってテディベアが指し示した方角には、日本ではまず見ないような建築物が建っていた。

 川を背に崖の上にそびえ立つ白亜の城。そしてそれを取り囲むようにして立つ巨大な壁。その壁の影に隠れるようにして群がる小汚い家屋群。

 長野県がいくら山に囲まれた田舎だと言ってもさすがにここまで文明が退化しているわけがない。

 ということはまさか本当に……?


「おいおいマジか? これが噂の異世界転生? おもちゃだけの世界に転生して、おもちゃを使役するチート能力で異世界最強俺TUEEEEすぎるが始まっちゃう感じ?」

「チート? 俺TUEEEE? すまんが何言ってるのか解説してくれ」

「どうせなら悪役令嬢転生が良かったなぁ。しっかり悪役令嬢RPして破滅したい」

「なんだかよく分からんが、転生ってことは死んだと思ってるのか? 悪いがお前はまだ死んでないぞ」

「は?」


 今度は私が鬼の形相をする番だった。

 死んでない? じゃあなんだ、これは転生じゃなくて転移ってこと? 人間界に羽ばたきたいとか言ってたし、もしかして現世に返される流れか?


「ふざけんな。今すぐ私を殺せ。もうこんな辛い記憶とトラウマ抱えたまま現世を生きてたくないんだよ。一旦リセットして来世ではイケメン優男の幼なじみと青春を謳歌した後に結婚して子供は二人。最後は孫たちに看取られながら安らかに逝くんだ。さあ今すぐ私を殺せ」


「悪いが俺たちおもちゃは人間を殺せない。だから死ぬのは諦めてまずはユニコーン王に謁見を――」

「じゃあ自殺してくる」


 死に場所を求めて再び森に入ろうとした私の手を、テディベアがモフッと掴んだ。


「ちょっ待っ! トイランドでは自殺は重罪なんだよ! お前を死なせちまったら自殺を見過ごした罪で俺まで極刑にされちまう!」

「極刑? 自殺はだめなのに死刑はあるんじゃん」

「俺たちは死なない。壊れるだけだ。だから極刑も死刑じゃなくて破壊になる」

「は? 死なないならなんで自殺に関する法律があるのさ」




「それは人間のための法律だからだ」




 ……人間のための法律? おもちゃの世界なのにどうして人間を想定した法律があるんだろう。


「この世界には度々人間が迷い込んでくる。というより人間界にトイランドへ通ずる扉が一定周期で開くようになってるんだ。そしてやってきた人間はたったひとつのおもちゃをつれて人間界へと戻っていく。言ったろ? ここは人間に選ばれて人間界へと羽ばたきたいおもちゃたちが集まった世界なんだって」

「そんな詳しく説明してなかっただろ」


 とはいえテディベアの話が真っ赤なウソだとは言い切れなさそうだ。

 どうやらここは異世界で間違いなさそうだし、こいつはガチでぬいぐるみだし、テディベアが初めて私を見たときの反応も珍しいこともあるもんだ程度のものだった。

 人間がやってくること自体そこまで珍しいことでもないのかもしれない。


「まぁなんでもいいや。じゃ死んでくる」

「待て待て待て! だからそれだと俺も壊されちゃうんだって! なんで死にたがるのぉ!?」

「一欠片の希望もない現世に帰ることになるくらいなら、ここでお前もろとも死んだほうがまし」

「俺を巻き込むな! 死にたいのは勝手だが他人に迷惑かけるなよ!」

「別に普通に死んでも他人に迷惑はかけるだろ。そもそも死にたいと思わせた社会が悪い。恨むなら人間社会を恨むんだな」


 去ろうとする私の手を再びモフリと掴んだテディベアは、今にも泣きそうな声で懇願した。


「頼むよぉ! 俺にだって夢があるんだよぉ! 会いたい人がいるんだ。その人に会って伝えたいことがあるんだ頼むよぉ……」

「やめろやめろ、そのおっさん声で泣きそうな声出すな気持ち悪い」

「手伝ってくれるのか?」

「いや手伝わないけど?」

「頼むよぉ! 手伝ってくれよぉ!」

「嫌だ。だって私にメリットがないもん。おもちゃ一つもらえるだけってクソほど興味ない」

「分かった。じゃあ俺もお前の望みを一つ叶えてやる」


 テディベアは急に真剣な表情でそう言った。

 だからなんで表情――、まぁいっか。分かるもんは分かるんだし。


「じゃあ私を殺してよ」

「それはできないんだって。だから代わりに死にたくないって思わせてやる」

「はぁ? 頼んでないんだけど」

「生きる希望をお前に取り戻させてやる。それでどうだ?」


 毎日毎日、辛くて死ぬことばかり考えてきた。

 生きる希望なんてとっくの昔になくしてる。死ぬくらいなら逃げればいいって言うくせに、逃げたら逃げたでそんなことで逃げ出すなんてと後ろ指を指してくる。そんな救いのない世界に希望なんてあるものか。

 ……でも。




「……ふん、面白いじゃん。じゃあ証明して見せてよ。希望なんて一切ない私のこの先の人生に、希望があるのかどうか。できなかった時はお前もろとも死んでやる」




 ニヒルに笑う私に、テディベアは穏やかに微笑んで、




「任せろ」




 とだけ言った。

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