200枚のチケット ‐僕と映画好きな先輩の恋‐

祈Sui

第1話 噂

 西日のさしこむ廊下を先輩が此方こちらに向かって歩いてくる。肩口までの髪を軽くなびかせながら颯爽さっそうと……。先輩は他の女子と違って群れている事が無い。だから見かけた時はだいたい一人だ。今日もそうだった。


「あの、先輩」


 声をかけると、立ち止まった先輩は一瞬視線を動かして、辺りに自分以外誰もいない事を確認してから僕に向き直った。私?と問いたげな瞳に頷く。


「何?」


「その、僕と……。僕と映ひゃを見に行ってくれませんか?」


 重要なところで噛んだ事に強い恥ずかしさを感じながら、チケットを差し出すと先輩は「ああ」とつぶやいて、冷たい目を僕にむけてから溜息ためいきをついた。


「悪いけど……」


 想像していた通りの答えに謝ろうと思った僕の前で、先輩は言葉を止めた。その視線は差し出したチケットを見ていて、それからもう一度僕を見た。その顔には考え込むような表情が浮かんでいる。


「……いや、いいよ」


「え?」


 躊躇ためらうような声に、一瞬いっしゅん耳をうたがった。


「私と映画を見に行きたいんでしょ?」


 続けられた声に我に返る。


「本当ですか?」


「うん」


 そう軽く頷いた先輩を見て高揚こうようした。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 深く頭を下げると、差し出していたチケットが取られた。


「じゃあ、この時間に劇場で」


 あまりの歓喜から、その場でへたり込んでしまいそうな僕を残して、チケットを持った先輩は去って行った。


◆◆◆


 それから僕は、ずっとドキドキしながら過ごしていた。帰り道に公園で分かれた悪友は「頑張って来いよ」と下卑げびた笑みを浮かべて言った。

 ご飯を食べて、お風呂に入ってから自室に戻って、ベッドの上に持っている全ての服を並べた。手にとっては鏡の前で合わせてみる。人生で此処まで服装について考えた事はない。絞り込んだ服以外を片付けた後で、悪友からもらったあれを財布の中にしのばせ、ついでに現金を確かめる。それから肝心かんじんなチケットも……。全部用意できてからもう一度ゆびさし確認をして、布団に潜り込んだ。けれど一向に眠れなかったから羊を数えて過ごした。


 けたたましい目覚ましの音に飛び起きると、もう昼近かった。ついさっきまで羊を数えていた気がしたのに、実際は眠っていたらしい。いつ頃眠れたのかは分からないが、まだ重い目をこすって居間まで下り、出された朝食兼昼食を食べた。使った食器を流しまで運んだ後で、洗面所に移動し、顔を洗って歯を磨き、櫛で寝癖を直すなどという、今まで一度もした事のないまねをしてから服を着替え、出かける前にもう一鏡で度身なりを確認して、悪友と遊んでくると言って家を出た。返事をした母さんは一瞬僕の方を見たが特に何かを察した様子は無かった。

 歩きながら腕に父さんの部屋から黙って拝借はいしゃくした時計をはめ、駅から電車に乗って街の中心へ。そこから目的の映画館まで歩き、近くにあったショーウィンドウで服と髪を再確認してから、中に踏み込んだ。30分は早いから目立つ場所で待っていようと視線を動かすと、先輩がもう来ていた。

 想定していた台詞が全て吹き飛んで、慌てて先輩に近付く。


「お、お待たせしました」


 早口で謝罪すると、顔を上げた先輩が不思議そうな顔をした。


「待ってないよ。今来たところだし、それに入場開始時間にはまだ30分ある」


「ですね」


 壊れた機械みたいに頷いた後で、何か言おうと思って、何も思いつかなかった。頭の中が真っ白になる。でも、どうにか間を持たせなくちゃならないと思った。出来るなら、気の利いていて楽しい会話で……。


「きょ、今日は天気が良くて良かったですね」


 探るように口にする。


「そうだね」


 先輩が同意してくれて、そして会話が途絶えた。目が劇場の外の道を走っていく車を眺める。赤、黒、バス、そして歩道を歩いていく老人。


「そうだ。先輩の趣味は何ですか?」


「映画鑑賞かな」


「です、よね……」


 ぎこちなく笑いながら自分は馬鹿だと思った。結局、それからは何も思いつかず入場開始時間まで黙って立っていた。

 入場開始を告げるアナウンスが響いた後で「いこうか」と言う先輩の言葉に頷いて、上映室の中に入った。先輩の後を追って、先輩が座った隣の席に座る。

 まばらなお客さんは、誰も話していなかったから、僕もただ黙って映画が始まるのを待っていた。やがてブザーが鳴って照明が暗くなり、現れたスクリーンに光がともった。上映が始まるったのと同時に、こっそりと先輩の顔を窺うと、その目はまっすぐにスクリーンを見ていた。スクリーンから放たれた光が、その鼻筋はなすじを浮かび上がらせている。


 先輩にはうわさがあった。それは、映画のチケットを見せて誘えば、映画を見た後で誰とでも寝るといううわさだ。それをどこからか拾ってきた悪友は「だから誘ってみればいい。好きなんだろ?」と揶揄からかうように言った。

「そんな事、ない」

 否定した僕を見た悪友は笑った。

「嘘だね。いつも目で追ってる」

 そんな露骨ろこつあらわれていたのかと恥ずかしくなった後で、先輩がそんな事をする人な筈が無いから二度と言わないようにと強めにたしなめると、悪友はまるで確信を得たというように「そらみろ」と笑みを深めた。何回か言い合った後で悪友は提案した。

「じゃあ、試しに誘ってみたらいい。断られれば、お前が信じたがっている通り、うわさは嘘だった事になる。受け入れられれば、お前は先輩を抱く事が出来る。どっちに転んだとしても損はないと思うが?」

「損とか、そういう問題じゃ」

「ああ、そう言えば、お前には貸しがあったな」

 僕の言葉を遮って悪友は言った。一瞬考えたてみたがそんなものはない。

「ねえよ」

「いやあるね。中学一年の時、山で転んで歩けなくなったお前を背負って下山してやった」

「あれは、お前が勝手に山登ってったから連れ戻そうとした結果だっただろうが」

 思い出して抗議すると悪友は懐かしそうな顔をした。

「あー、二人一緒に怒られたなぁ。でも、俺はお前を見捨てなかったし、それに、お前の所為にもしなかっただろ?まぁ、あれが貸しじゃないっていうんなら仕方がない。勝手にお前が先輩の事を好きだって吹聴ふいちょうして回る事にするよ」

「なんでだよ」

 言っている意味がまるで理解できない。

「だって、そうしたら先輩にお前が先輩の事が好きだって伝わるだろ。ああ、俺はなんていいやつなんだ」

 自分で口にして、自分で感心しているのを見てあきれる。

「本当に良いやつが、自分で自分の事を良いやつだなんていうかよ。ただ俺を困らせて楽しんでるだけだろ」

 そう言うと、悪友は笑った。

「まぁ、そうなんだけどねぇ。でも俺の言う通り誘わないとお前は後悔するんじゃないかなぁ、なんなら俺が先輩を誘ってみても良いんだぜ?」

「それはやめろ」

 一瞬、こいつが先輩と関係を持つ光景が浮かんで振り払った。

「わかった。わかった。じゃあ明日誘えよ。ちょうど金曜日だし、土曜日の上映チケットを買っとけばいい。昼過ぎからのにして、夕食を食べてくるプランが良いと思うぞ。そしてうわさが本当なら、お前はそのまま夜の街に消えていくわけだ」

 何も言わないでいる間に、悪友は一人で盛り上がっていった。

「それと見る映画は最新のじゃなくて古いやつな。だから劇場も自然と、小さくておおむきのあるところになるな。例えばここなんかがおすすめだ」

 差し出された端末には古びた劇場が映し出されている。

「アクセスも悪くないし、食事ができる場所も、そういう場所も近い。もしかしたら見る映画は何でもいいのかもしれないけど、こういう所に誘った方が洒落しゃれてるだろ」

「そうかー?」

 熱心なその語りに、疑問を挟む。誘うにしても、個人的にはもっと新しく綺麗な場所の方が良いような気がした。

「そうだよ。うわさから考えると先輩は本当に映画好きな可能性がある。だとしたら最新のがやってる大きな劇場じゃなくて、こういう所の方がいいはずだ。ただ間違っても映画の内容を調べておいて語ろうなんてするなよ」

「なんで?」

「もしも彼女が本当に映画好きだったなら、付け焼刃みたいな知識なんかひけらかしたらきっと笑われて相手にされなくなるぜ」

「なるほど……」

 返ってきた言葉に、思わず納得した。

「あとは、もし成功したら余分に金は持っていく事。それからこれは餞別せんべつだ」

 頷いていた僕に、悪友がポケットから何かを取り出して差し出した。それがなんだかわからないまま手を受け取る形にして伸ばすと、手のひらの上に何かが落とされた。

 四角いパッケージに包まれた円形のものを見て、動揺どうようする。

「そんだけありゃ足りるだろ。まぁ向こうが持ってるかもしれないけどな」

 慌ててにぎった折りたたまれたパッケージは、三個分だった。

「それじゃあ、健闘を祈る」

 ブランコから飛び降りた悪友は嫌な笑みを浮かべながら敬礼けいれいをして去って行った。


 冷静さを取り戻す為に、記憶を辿たどっていたらいつの間にか映画は終わり、エンドロールが流れていた。幕が閉まり照明が降り注ぐと、まばらなお客さんが席を立って、次々に帰っていく、その流れがひと段落した後で「さて」と先輩が立ち上がったから、僕はそれに従うように身体を持ち上げて出口に向かった。

 先輩はたぶん気付かれていないと思っただろうけれど、照明に照らされた時、先輩は泣いていた。顔を逸らして目をほぐす様な動作をしていたけれど、あれは確かに涙をぬぐう動作だった。だから余計に何も言えなくなって、黙ったままロビーに出て、何も気づかなかったように先輩の方に振り返ると僕の後についてきていた先輩が突然頭を下げた。


「ごめんなさい」


 困惑した僕に先輩は続けた。


「君がどうして私を映画に誘ったのかはわかってる。うわさを聞いたんだよね?」


「いえ、その……」


 何というべきか迷って、結局上手い言い訳は出てこなかった。此処でただ先輩と映画が見たかっただけなんて言うのは白々しすぎる。


「あれはデマなんだ」


 先輩は僕の言い訳を待たなかった。


「中学三年生の頃、同級生の男の子から映画に誘われたの。丁度見たい映画だったし、特に断る理由も無かったから一緒に映画を見に行ったんだ。私は彼がただ純粋に映画を見たいんだと思っていたんだけど、違ってた。笑えるよね。たくさんの恋愛物語に触れて来たのに、まるでその可能性に思い至らなかった。映画を見終わった後に告白されて、断った。理由は彼の事をよく知らなかったから。だけどそれがきっと彼のプライドを傷つけてしまったんだ。それで、そんなうわさを流されちゃった」


 先輩のうわさが自分の考えていた通り嘘だった事に、若干の失望とそれ以上の安堵が生まれ、次の瞬間に同情と怒りが湧いた。


「そんな、そんなの酷いじゃないですか、何で否定しなかったんですか」


 まさに自身がそれを利用しようとしていた事を棚に上げ、思わず口にしていた。


「否定はしたよ。でも彼はクラスの人気者で、私はそうじゃなかった。どちらの言葉を信じるか、自明じめいでしょ?それに、私は知りもしなかったのだけれど彼にはその時、交際相手がいてね。そっちからも恨みを買って。うわさが拡大しちゃった」


「誰も助けてくれなかったんですか?」


かばってくれた子はいたよ。だけど、そのままだと彼女まで立場を失くしちゃっただろうからね……」


 先輩の顔に浮かんだ寂し気な表情に、先輩がいつも一人でいる理由をさとった。


「以上が事の真相。進学したらもう大丈夫かと思ったんだけど、まだ時々、君みたいにうわさを知って声をかけてくる人がいるんだ」


 その言葉に強い罪悪感を覚えて視線を下げる。弁解べんかいの余地は無かった。


「……ごめんなさい」


 そうつぶやくと先輩は力無く笑った。


「いいんだ。今日悪いのは、ちゃんと断らなかった私だから」


「でも、僕は先輩に最低な事を……」


「もう慣れっこだよ。君で確かもう八人目。生徒とそれから、先生もいた。中には彼女がいたり、奥さんがいたりする人もいた。不思議だよね。抱ければどうでも良いみたい。なのに、やましさは有るらしいんだ。めんどくさくなりそうなときは端末で音声おんせいを記録し始めて、実際めんどくさくなった時にそれを教えてあげるんだけど、途端とたんに誰もが秘密にしてくれって頼むの、もし噂が本当だったら、不義理を働いて、そして、それを隠したまま恋人や配偶者、自分の子供を抱きしめて愛していると言うつもりだっただろうにね。せめて貴方を愛しているけれど、誘えば抱かせてくれる女がいるから、抱いて来ても良いですか?って聞いてからくるべきだと思わない?まぁ、いたら正気を疑うけど……」


 先輩の言葉を聞いて、ふと疑問に思った。


「なら、先輩は今までそんな人の誘いを全部断ってきたんですよね?」


「うん、そうだよ」


「じゃあ、なんで僕のは……」


「ああ、君の誘いを受けたのは単純にこの映画を見たかったから。でも情け無い事にお金がなかったんだ。バイト代が入る時には、上映は終わってて、次にいつやるかはわからない。だから見ておきたかったんだ。それだけ、ごめんね。もちろんチケットの代金は、お金が入ったら返すから。それで許してもらえないかな」


 酷く申し訳なさそうな顔をした先輩を見て、自分のした事の方が最低なのにと思った。


「お金は返してくれなくていいです」


「いや、そういう訳にはいかないよ。君を騙した事になっちゃう」


「僕が悪いんです。だから……」


「違うよ。ちゃんと断らなかった私が……」


「じゃ、じゃあ、お金の代わりに、また一緒に映画を見てくれませんか?」


 押し問答が始まりそうだったから、ついそう口走ってしまった。


「え?」


 先輩が驚いていて、それと同じぐらい自分も驚いていた。でも、口にしてしまった以上仕方がない。


「チケットは僕が用意するので、本当に純粋に、僕は先輩と映画が見たいだけなので、本当にそれだけでいいんで……駄目、ですか?」


「いい、けど……でも」


 勢いに押された先輩が頷いたのを見て続く言葉を待たずに頭を下げた。


「ありがとうございます」


 そう言った瞬間にきびすを返して走り出す。


「あっ、ちょっと君」


 背後から聞こえる先輩の声を置き去りにして、僕は笑った。自分でも信じられないが、次の約束が出来た。そして僕は気付いたのだ。

 僕は、先輩の事を何も知らなかった。ただその姿にかれていただけだ。いつか先輩を誘った誰かのように、ただ下心で動いていただけだ。

 だけど今は違う。映画を見終わった先輩は涙を流していた。その涙の訳。どうしても見たかったと言ったその理由が分かったら、僕は先輩を知る事が出来るのかもしれない。そしてその時この気持ちが変わらなかったら、その時こそ僕は本当に先輩の事が好きなのだ。

 咄嗟とっさに次の約束をうたのが、或いは自らが行った最低の行為に対するつぐないがしたかった所為せいだったとしても、僕は、その二つの機会きかいを得たのだ。それに対する高揚感に包まれながら僕は走った。

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