漁火

碧原柊

第1話

 十一月の暗く沈んだ海の上で、重い灰色の雲がすべてを覆いつくしていた。日の出の時間だというのに、雲は厚く太陽の姿はこれっぽっちも見えない。海から陸に上がった途端、雨の匂いを孕んだ風がまとわりついてきて駿吾は思わず顔を顰めた。このぶんではあと三十分もすれば降り出すだろう。予報では明日の午前中まで雨の予報だったので、今晩は雨に打たれながら漁に出ることになりそうだ。ちっ、と小さく舌打ちをする。

 ここのところ、ただでさえイカ釣り漁は不漁が続いているのに加えて、冬の日本海は時化が続いて漁に出れない日も多い。本格的に冬を迎える前に、少しでも多く水揚げしなくてはならない。自分で選んだ仕事とはいえ、やはり漁師という仕事は楽なものではないなと思う。

「駿吾くん」

 先に船から下りた駿吾に向かって、義兄の勝弘がスルメイカがパンパンに入ったケースを差し出した。それを受け取って浜に並べていく。スルメイカの漁期は十二月までだが、それが終われば一月からヤリイカの漁期になる。毎晩大量のライトをぶら下げた漁船で父と兄とともに沖に出てイカを獲り、帰ってきて寝てまた海に出る。もうすぐ二十歳になる駿吾の毎日はその繰り返しだ。

「駿吾、あんたお父さんたちとごはん食べてくんでしょ?」

 港で船の帰りを待っていた母親が駿吾に尋ねた。「いや、今日は帰るわ」と答える。漁から戻って片付けやら掃除をしたあと、漁師仲間で食事を取ってから解散するのが習わしだ。だが、昨日は寝るのが遅くなってしまったので今日はさっさと帰って寝てしまいたかった。イカ釣りの漁火は幻想的な夜景だともてはやされることも多いが、実際に夜通し漁をするというのはきついものがある。だが、夜の海を煌々と照らす漁火のひとつに自分がいるというのは、悪い気分ではない。

「そう? じゃあ家にあるもの適当に食べて。家に恵美もいるし」

 そう言って母親はイカの入ったケースを運んでいった。駿吾たちが獲ってきたイカを市場へと運んでいくのは母親の仕事だ。

 恵美は駿吾より六つ年上の姉で、父の船の乗り子だった勝弘と去年結婚した。名字は勝弘の姓になったが、家を建てる金が貯まるまでは駿吾の家で一緒に暮らしている。勝弘の家庭は複雑なようで、高校を出てすぐのころから漁協で働き、四年前に駿吾の父の船の乗り子になった。親とは連絡を取っていないというので、結婚式はせず写真だけ撮った。

 少し前までは恵美も母といっしょに港に来てイカを市場に運んでいたが、臨月を迎えてからはいつ産気づいてもいいように家で留守番している。「初産は遅れるって言うけどね」と笑いながら出産の準備をしている恵美の顔は、駿吾がずっと見てきた姉のそれではなく、母の顔になった。

 後片付けを終わらせてから、「先に帰る」と父に告げ姉から借りている水色のアルトに乗り込んだ。大柄な父に似て駿吾も身長が高いので、背の低い軽自動車は窮屈だが贅沢を言えるような立場ではない。

 エンジンが温まるのを待つあいだに、スマートフォンを取り出して通知をチェックする。最近始めたゲームアプリや、クーポンの通知以外は特になにも来ていなかった。

 冷え切った車のなかに、エアコンから吐き出された温風がゆるやかに広がっていく。さっさと家に帰ってカップ麺でも食べて寝てしまおうと思っていたはずだったのに、なんとなく車を走らせる気にならず、ぼんやりスマートフォンの液晶画面を眺める。そうしているうちに、今日が土曜日であることに気がついた。毎日同じことの繰り返し、仕事は海の機嫌次第という生活を送っていると、つい日にちや曜日の感覚が薄れてしまう。

 駿吾は通話履歴に並んでいる『先生』という文字をタップして、そこに表示されている十一桁の数字をじっと見た。かけようかどうしようか数秒迷った末、結局かけることに決めて通話ボタンをタップする。耳元でコール音が何度も繰り返されるが、なかなか繋がらない。あと一回で切ろうと思ったそのとき、電話の向こうから気だるげな男の声が聞こえてきた。

『……もしもし』

 いざ繋がると、いったいなにを喋ったらいいのかわからなかった。そもそも自分はどうして電話をかけたのだろう。黙っていると、男のほうが先に口を開いた。

『用がないなら切るぞ。まだ寝てたんだ』

 電話の向こうで男はふああ、とあくびをした。休日なのはわかるが、そうは言ってももうすぐ十時だ。俺は寒いなか夜通し海の上にいたんだぞと文句のひとつでも言ってやりたくなる。

「いつまで寝てんだよ。もう十時だぞ」

『休みなんだからいつまで寝てたっていいだろ。今日はもう仕事上がったのか?』

「うん、終わった。寒かった」

『そうか。お疲れさん』

 大変だなとかうちに来てあったまるかとか、繭でやさしくくるんでくれるような言葉をこの男に期待するのは間違っていると理解しているのに、いざそっけなく返されると胃の下あたりがきゅっと縮こまるような居たたまれなさに襲われる。自分より十五歳も上のこの男にとって、自分などいてもいなくてもさして変わりないような存在なのだ。駿吾から連絡を取らなければ、ふたりの繋がりはあっという間に解けるだろう。

「腹減った」

『家帰ってなんか食えよ』

「先生んちで食わせて」

『冷蔵庫になんも入ってない』

「じゃあ買ってく」

 男ははあ、とため息をひとつ吐いてから「好きにしろ」と言った。

『ビールも買ってきてくれ。あとで金渡すから』

「俺まだ未成年なんだけど」

『あと二カ月で二十歳だろ。大丈夫だ』

「そういうことじゃねえだろ。仮にも先公が」

 電話の向こうの相手である藤代透は、駿吾の高校時代の先生だ。とはいっても、二年と三年の選択授業でとった美術の非常勤講師だったというだけの話だ。透とは半年前にばったり再会して、それから駿吾はたびたび彼の家を訪れるようになった。

『プレミアムモルツな。発泡酒買ってくんじゃねえぞ』

 駿吾のささいな叱責などまるで意に介していない。駿吾が透に対して先生らしい振る舞いなど求めていないことをわかっている。それ以上抵抗する気にもならず「わかったよ」と答えて電話を切った。

 駿吾の家の近くにあるスーパーに寄って食材を買う。面倒なので弁当にしようかと思ったが、開店して間もない時間のせいか、食欲をそそられるようなものがなかった。仕方なくなにか簡単なものでも作ることに決める。駿吾の家では、家の手伝いをした分しか小遣いがもらえなかったので自然といろんな家事が身についた。

 冷凍うどんと玉子とネギ、それから総菜の天ぷらとプレミアムモルツの三五〇ミリの缶を二本。ビールは好きだが、いっぺんに五〇〇も飲むと腹が膨れるからいやだと透はこの前言っていた。

 駿吾の住むアパートには来客用の駐車スペースはないので、スーパーの駐車場に車を停めたまま、食材の入ったビニール袋を持って歩いてアパートに向かう。田舎のスーパーやドラッグストアの駐車場は無駄に広い。このスーパーの駐車場が満車になる日は未来永劫来ないだろう。

 二階建てのアパートの角部屋、二〇五号室の扉をノックする。カチャン、と内側から鍵を外す音がして、部屋のドアが開くと、ぼさぼさの髪で眠そうな顔の透がスウェット姿で立っていた。無精髭も点々と生えている。

「おはよ、先生」

「おー、入れ」

 お邪魔します、と言って部屋にあがる。八畳の和室とキッチン・バストイレだけの小さな部屋は相変わらず殺風景だ。最初に入ったときも思ったが、透の部屋は命の匂いが薄い。必要最低限のものしか置いていないというのもあるだろうが、それ以上にここで人が生活しているという息遣いがあまり感じられないのだ。透が駿吾の高校に赴任してきたのが三年前の春のことだから、三年半以上暮らしているとはとても思えない。ふと修学旅行で泊まったホテルの部屋を思い出した。ああいう、物があるのに生活の匂いがない無機質さに似ている。

 透は四年半前に妻を亡くしている。そのときに、透の心もいっしょに死んでしまったのかもしれない。

「ビール買ってきたか」

「ちゃんと買ってきたって。台所借りるよ」

 ああ、と頷いて透は浴室に消えていった。ほとんどなにも入っていない冷蔵庫にビールをつっこみ、水を張った鍋を火にかける。壁の薄い浴室から聞こえてくるシャワーの音を聞きながらネギを刻んでうどんを茹でる。夜の漁は体が芯から冷えきってしまうので温かいものが食べたかった。麺つゆを水で薄め、温まったところで玉子を落とし半熟になったあたりで火を止める。茹でたうどんに出汁をかけたところで風呂場の音が止んだ。下はさっきと同じスウェット、上はタオルを引っかけただけという姿の透が駿吾の手元を覗きこむ。しっとりと濡れた髪の毛先から落ちた水滴が駿吾の腕を濡らした。

「うまそうだな」

「先生もちゃんと自炊したほうがいいって。若くないんだからさ」

 かつての教え子の生意気な物言いを、透は「うるせえよ」と笑って一蹴した。そもそもこの男は自分の体になど頓着していないのではないだろうか。そうでなければ、妻を喪った透が駿吾をこうして受け入れている理由が見つからない。

 駿吾は玉子とネギを乗せたうどんと総菜のてんぷらをこたつの上に運んだ。二人でこたつに当たりながら「いただきます」と手を合わせて食べ始める。温かいうどんを啜るたびに、寒さで凝り固まっていた体が弛んでいく。

「メシ作るのうまいよな、お前」

「こんなもん作るうちに入らねえよ。冷凍うどん茹でただけだって。冷凍庫にまだうどん余ってるからやってみなよ」

「一人分作るのって面倒なんだよ」

 そう言って透はずるずるとうどんを啜った。一人分が面倒だというなら、一人じゃなければ作っていたとでも言いたいのだろうか。透のなかにある女の存在を、駿吾は無意識のうちに探している。どんぶりのなかに浮かんでいる玉子の真ん中に箸を入れると、出汁がどろっとした黄色に染まった。

 揃いのどんぶりも駿吾の箸も、この部屋に通うようになってから駿吾が百円ショップで買ってきたものだ。透はあまり自炊をしないらしく、皿も鍋も必要最低限のものしか持っていなかったのだ。無機質な透の部屋に、少しずつ駿吾が買ってきたものが増えていく。十五も年上の、妻を亡くした男に対してせっせとマーキングのようなことをしている自分の女々しさにうんざりする。

 うどんを食べ終わってどんぶりを流しに運ぼうとすると、透に腕を掴まれた。透から漂ってくる空気が瞬時に濃くなるのがわかって、ごくりと喉を鳴らしながら唾を飲み込んだ。

「うどん食べに来たわけじゃねえんだろ。ヤるならさっさとしろ」

「……風呂入ってない」

「いいよ、俺はそっちのほうがいい」

 透が言い終わるよりも前に、駿吾は透の唇にむしゃぶりついた。透が肩にかけていたタオルがするりと落ちる。

 駿吾は、自分と同じ平らな胸とペニスのついた体を畳の上に押し倒した。まだ濡れている透の髪が畳の上に散らばる。駿吾の体はすでに情欲にまみれていた。透は決して小柄ではないが、一八〇センチの身長に加えて、体力仕事のおかげで筋肉がしっかりついている自分と比べると小さく感じてしまう。自分の上に覆いかぶさってがむしゃらに舌を絡めてくる駿吾の脛を、透がつま先でかりっと引っ掻いた。愛撫ですらないそんな刺激に煽られる。

 高校一年生で童貞を捨て、それから何人かの女と寝たが、「こんなものか」というのが正直な感想だった。女の膣に突っ込んでいるあいだはもちろん気持ちがいいが、終わるとそれまでの快感が嘘のように醒めてあらゆることが面倒になる。セックスとはそういうものだと思っていた、透と寝るまでは。

 いままで男に惹かれたことなどなかったし、ましてや自分が同性とセックスできるタイプだとは思っていなかった。どうして透と寝ているのか、自分でもいまだにわからない。誰でもいいからぐちゃぐちゃにしたかっただけなのかもしれないと思うこともある。ただひとつはっきりしているのは、死人のような顔で不意に目の前にあらわれたこの男に、駿吾は足を取られてしまったということだけだ。

 女のようなふくらみのない胸にある、ちいさな突起を上下の歯で挟んで噛む。駿吾の下で透が「あ!」と鋭い声をあげた。

 自炊もせず適当なものばかり食べているわりには余計な肉のついていない体をまさぐって下着のなかに手をねじ込むと、透のそこもしっかり硬くなっている。自分の指と唇と舌で透が感じているというのは、女を抱いたときとは違う種類の喜びがあった。明け方まで海風に曝されて心まで冷え切った駿吾の芯がカッと熱くなる。

 ボクサーパンツごと透のスウェットを一気に脱がす。ちょっと待て、と透が遮り、ホームセンターで売っているような安っぽいプラスチックの収納ケースからローションとコンドームを取り出した。はっはっと荒い息をこぼしながらコンドームをつけ、透の尻をローションで濡らす。

「犬みたいだぞ、お前」

 透がにやりと口元を歪める。うるせえ、と吐き捨てながら駿吾は透を突き上げた。女の膣よりもずっと狭くてきついその場所は、噛みちぎろうとしているのではないかと思うほど駿吾を締めつけてくるので、気を抜けばあっという間に達してしまいそうになる。はあっと深く息を吐いて、昂りを逃し、ゆるやかに律動を開始する。駿吾に揺さぶられている透の口から濡れた吐息が漏れた。

「なあ、女抱くのと俺に抱かれるの、どっちがいい……」

 口に出してしまってから、馬鹿なことを言ってしまったものだと悔いた。透にとっての「女」は、駿吾とは比べものにならない存在だろう。透はなにも言わず、下から駿吾を見上げて、自分を貫いている男の短く刈り揃えた髪を撫でた。セックスの際のたわごとなどいくら駿吾とて本気にするわけなどないというのに、嘘でもいいから「お前に抱かれるほうがいい」とは言ってくれない不器用さが憎らしかった。

「若いな、お前は」

 透の体ははっきりと快感を湛えているというのに、瞳だけはどうしたって色を変えてくれない。透の視線から逃れるように、駿吾はもう一度平らな胸に顔を埋めた。駿吾に抱かれているときの透の目は、深くて暗い底なしの真っ暗闇のようで、駿吾はそれがおそろしいのだった。透のなかには駿吾には想像もつかないような奈落があって、何時如何なるときも透を飲み込もうとしている――その奈落が透をすっかり飲み込んでしまったとき、透はこの世界で生きることを放棄してしまうのではないかという予感が駿吾を襲う。それを振り払うように、駿吾は激しく透の体を突き上げる。寄せては返す波のように喘ぐ透の声が小さな部屋のなかに響く。ぱらぱらぱら、と雨が降り出す音がした。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る