第9話

 割り当てられた自分の部屋へ入ると、すぐにスーツを脱いでシワにならないようにハンガーへかける。シャツも脱いで部屋着として重宝している質の良い生地でできたスウェットを身につけた。五紀と同居を始めた新社会人の頃にプレゼントされたものなのだが、かなりの回数着ているのに生地に全くほつれがなくて感心する。俺には見当もつかない高級品なのだろう。


 ラフな格好に着替えた俺は、何も考えずにベッドに横になった。

 五紀と付き合って何年か経つが、五紀が俺の体に触れたことはない。たまに触れるだけの優しいキスを五紀はしてくれるが、それ以上に発展することは一度もなかった。

 ……だから正直、俺は体の熱を一人で持て余している。五紀の綺麗な指に触れて欲しい、綺麗なあの声に耳元で囁いて欲しい。そんな浅ましい気持ちを持ったまま、五紀に隠れて自分を慰める事を繰り返していた。五紀のことを好きになってしまうほどに欲望は過激になっていった。


「……五紀」


 一人になると、虚しくなるのはいつものことだった。隣に五紀がいてくれないことにどうしても虚しさを覚えてしまう。俺の勝手な妄想が、いつか現実になってくれないかと願ってしまう。


「馬鹿馬鹿しい妄想だな……」


 五紀に抱いてくれなんて言えるわけがない。言っていいわけがない。

 五紀から俺に告白してくれたとは言え、俺は五紀の人生を狂わせてしまった自覚がある。望めばなんでも叶えられるような環境と実力を持つ五紀に、俺はどこまでも相応しくなかった。どこまでいっても結婚できないΩとΩ……五紀と俺の関係は、決して人に知られてはいけない。


 それでも俺は確かに幸せだった。五紀の未来を奪ってしまった罪悪感と同じくらい、そばにいられることに幸福感を抱いてしまった。だからこそ、五紀を好きになればなるほど俺は五紀に「好き」と言えなくなっていた。好きという言葉で五紀を縛ってしまったら、もう戻れなくなってしまうと思ったから。


「五紀は、俺とは違うのに」


 五紀は俺とは違って誰とでも番になれるだろう。望めばどんなαも虜にしてしまうような、そんな魅力的な男なんだから。俺にはもったいないとわかっていても、どうしても五紀を手放すことはできなかった。

 胸に触れる金属を指で撫でる。小さな鍵……これが、俺と五紀を結びつけるたった一つの物。この鍵だけが誰も知らない俺と五紀の関係を確かに証明してくれる。


「……好きになってごめん……」


 これからも俺は五紀を手放すことはできないんだろう。こうして悶々とした気持ちを抱えたまま、五紀に触れられる妄想で自分を満たして、そしてずっとこうして罪悪感に囚われ続ける。こんな不毛な関係は間違いだとわかっていながら、耳に馴染む綺麗な声で名前を呼ばれたり、少し冷たい指に手を繋がれたり、ただ一緒にいるだけで……全てどうでも良くなってしまう。


 俺なんて見捨てて欲しいと思う気持ちと、ずっと五紀の一番でいたいという気持ちで、俺の心はいつもぐちゃぐちゃだった。





 料理をするのは久しぶりだった。いつも五紀が作ったり余裕のある時は外食をしていたから、二人暮らしを始めてからこうして俺が台所に立つようなことはなかった。というのも、五紀が俺に家事をさせないようにしていたからなのだが。


 熱したフライパンの中、サイコロ状に切った野菜と鶏肉を木べらで転がす。香ばしい香りにそろそろいいかと、俺はフライパンの中へケチャップを投入した。一通り混ぜるとその中にお碗2杯分の米を入れて、木べらで切るように混ぜていく。そんな時、シンクに雑に置いていた携帯が着信を知らせて音を立てた。


「うわ、びっくりした……」


 静かな部屋に響く大きな着信音に驚きながら、料理をする手を止めて俺は携帯を手に取り画面をタップして耳へ近づける。


『あ、優〜!もうすぐ帰るよ。何か買っていく物とかある?』

「別にないよ。昼ごはん作ってるから、真っ直ぐ帰ってくればいい」

『え〜!?優の手料理……!?だっ、大丈夫!?手とか切ってない?火傷とかしなかった!?』


 電話口から聞こえる大袈裟な声に笑いを溢しながら、俺は答える。


「はは……子供じゃないんだから心配するなよ。というか、そろそろ切るぞ。料理中なんだ」

『ええ!?待ってよ、僕が家に着くまで電話繋いでいようよ〜!』


 大袈裟にごねている声をよそに、俺は携帯を適当にシンクに置いて料理の続きをすることにした。通話を繋げたままなので、電話からは何やら声が聞こえているが無視をした。火をつけたまま放置していたフライパンの中で出来上がったチキンライスをなだらかに窪んでいる皿に盛り付け、火を止める。冷蔵庫から卵を3つ取り出して金属のボウルに全て割り入れた。菜箸で卵をかき混ぜながら、久しぶりにやっても意外と覚えてるもんだなと、どこか遠くでそんなことを思う。


 一人暮らしをしていた大学生の頃はこうしてよく料理をしていたが、二人で暮らし始めてからは五紀にやんわりと料理をしないように誘導されていた。料理だけではなく、洗濯や掃除や宅急便の応答なんかも全て……俺がやる前に五紀がやってしまったり、ハウスキーパーを雇って俺のいない間に済ませてしまっていた。今日だって冷蔵庫を開ければ、すぐに食べられる惣菜が保存容器に入っている。五紀が出張前に俺のためにと作って置いていってくれたもので、全部俺の好きな食べ物だった。



「……わがままだよな」


 五紀が俺に与えてくれる自由に俺は窮屈さを感じているなんて、おかしな話だった。それでも俺は、与えられる餌を食べるだけの、雛鳥のような自分を受け止めることができない。好きだからこそ、傲慢にも五紀と対等でいたかった。


 溶いた卵を油を引いたフライパンの中へ投入する。強火で熱しながら菜箸で卵をかき混ぜると、ふわふわと卵が固まってきた。完全に火が通ってしまう前にフライパンを振って形を整形していく。先程盛り付けたチキンライスの上に焼いた卵を乗せれば、久しぶりに作った割には綺麗なオムライスが出来上がった。ひとまず一つ出来上がった皿を持ち、ダイニングのガラステーブルの上へ置く。すぐにでも食べられるようにとスプーンや飲み水を入れたグラスをセッティングしていると、タイミングよく廊下とダイニングを繋ぐ扉が開いた。



「優〜〜!途中からなんか電話口から焼ける音しかしなくなって心配したよ〜!!」


 大袈裟に声を出しながら部屋へ入ってきた五紀は、正面から俺にがばりと抱きつく。外の寒さを纏った五紀のスーツが俺の体温でぬるくなっていく。触れた頬が冷たくて俺は思わず目をギュッと閉じながらやんわりと五紀の胸を手で押し返した。


「五紀、早く着替えてこいよ。オムライス好きだったよな?」

「おお〜!すっごい美味しそう!優の手作りオムライス!?このまま飾っておきたいくらいだよ」

「いや早く食べろよ。ほら手洗いが先」

「はーい」


 何度も振り返りながら話しかけてくる五紀の背中を押し、ダイニングから無理矢理退出させた。


 どうせこの先はずっと一緒にいられるのに、何がそんなに名残惜しいんだか。大袈裟な五紀の愛情表現でさえ嬉しくなってしまうお手軽な自分に、俺は少し笑ってしまった。五紀の冷えた体を抱きしめて温めてやりたいだなんて、流石に恥ずかしすぎる考えを振り払いながら自分の分の食事の準備をする。

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