第5話


 少し肌寒さの残る風とともに桜の花びらが頬を撫でるのは、この大学に来て3回目だった。


 いよいよ就職について真剣に考えなくてはいけない頃。篠宮のように大学生の頃から働いている者をのぞけば、誰もが頭を抱えたくなる『就職活動』という四文字。類に漏れず、俺も頭を抱えて溜息を吐いていた。


「それ、そんなに悩む?」


 『進路希望』と書かれたA4サイズの紙を相手に頭を抱えている俺に、丸テーブルの向かいに座った男は心底わからないというような口振りでそう俺に言った。大学のカフェで今月から発売の開始した桜サイダーという飲み物を飲んで「これ本当に桜入ってるのかな」と、呑気に言葉を続ける。


「……まあ、もうとっくに進路の決まってるお前にはわからないだろうな」

「なーにそれ吾妻、嫌味ったらしいんですけど〜」


 ミルクティーのような柔らかな髪は緩やかにウェーブしながら、その美しい顔を引き立たせるように正面やや外れたところから少し立ち上がって左右に流れている。高校の頃のような華やかで繊細な中性的な印象を残しながらも、確かに大人の男として篠宮は美しく成長したΩになっていた。かつては俺の肩ほどまでだった身長も、今は俺の顔と同じ位置に顔がくるほど高くなった。……とはいえ、俺の方が身長は高いが。


 一見魅力的なαのようにも見える篠宮は、もうほとんど残っていない飲み物をストローでかき混ぜながら「てかさあ」と口を開く。


「僕、前も言わなかったっけ?吾妻さえ良ければ一緒の会社で働こうって」

「だからそれ断っただろ?知り合いのコネで入社とかなんか気まずいから」


 大学2年の頃から篠宮にはしつこく「一緒に働こう」と誘われているが、正直俺は乗り気ではなかった。いずれ篠宮が継ぐことになる会社……複数の事業を展開している大企業なのだが、そんな会社で働けるほどの能力が自分にあるとは思えなかったからだ。


 ……なるべく無難なところがいい。平凡で地味で……できればΩだとしてもそこまで給料格差のない企業がいい。働く上での俺の望みというのは、それくらいのものだった。だからこそ、絶対に就職したい企業なんてものもない。そもそもただでさえ就職が難しいΩなんだ。採用してくれる会社であればどこでもいいのかもしれない。


「吾妻って真面目だよねえ……あ、ねえ。それなら第一希望に『篠宮五紀のお嫁さん』とかは?」

「就職指導の教員に殺されるだろ、俺が」

「そこは吾妻の力の見せどころじゃん。愛の力で乗り越えてよ」

「無茶言うな。……篠宮、そろそろ時間だろ?大学の講義、遅れないようにな」


 携帯の画面を見れば、いつの間にか11時になっていた。俺も篠宮も今日は午後から講義が入っている。俺はこの大学の生徒なのでそのまま講義に行けば良いから気楽なものだが、篠宮はこれから電車に乗って片道一時間ほど離れた自分の大学へ帰らなくてはならない。


「あ、本当だ。吾妻といると時間があっという間に過ぎていっちゃうなあ」


 左手に身につけているシンプルながら質の良い腕時計で時間を確認した篠宮は、飲み干したカップを手に立ち上がった。俺も篠宮に続くように、テーブルに広げていた書類を片して立ち去る用意をする。ちらりと篠宮を見上げれば、当然のように俺の準備ができるのを待っている優しい表情が見える。カフェにいる学生たちの視線を一点に集めた篠宮は、そんなのはなんて事ないと言うように俺だけを見ていた。


「吾妻、準備できた?途中まで一緒に行こ」

「……ああ」


 椅子から立ち上がるときに背中にそっと回された篠宮の手に、俺はそろそろ潮時だと改めて感じていた。


 認めざるを得なかった。篠宮に触れられただけで心臓が激しく鼓動する理由を。




「じゃあ、また来るね」

 エントランスで篠宮はいつものように俺に手を振ってそう言った。いつもなら俺は「忙しいなら来なくて良い」とか可愛げのないことを言って立ち去るのだが、今日は……。


「……篠宮、今週末空いてるか?」

「え……、別に用事はなかったと思うけど……。な、何?吾妻となんか約束してたっけ?」


「お前の家……行ってもいいか?」


 ひゅ、と篠宮が息を飲み込んだのがわかった。俺の声に緊張が滲んでいたのだろうか、篠宮はやけに硬い表情で頷いた。


「……じゃあ週末……待ってるね」


 感情の色の乗っていない声でそう言った篠宮は、そそくさと俺に背を向けて立ち去ってしまった。振り返る時に篠宮からふわりと香ったシャンプーの香り。この香りが昔から俺の中にずっと残っている。

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