ぬいぐるみが廊下を歩いて

@aqualord

ぬいぐるみが廊下を歩いて

「ぬいぐるみが廊下を歩いていたと言っている人がいるそうです。」


私に話しかけてきたのは、うちの課に去年配属されたばかりの山野君だった。

その言葉で室内の全員が緊張した。


「…それは、うちの人間か?」

「はい。営業の加納さんだそうです。」

「加納君は確か…」


聞き覚え、どころかアラームが盛大に鳴り始める名前だった。


「3年前に。」


うちの課勤務の長い小山さんが寄ってきて耳打ちした。


「うん。あの時は…」

「半年間でした。」

「そうだったね。」


うちのような小さい会社だと、何かがあった社員のことは細かいことまで憶えている。


「あの時は、幻覚はなかったはずですが。」

「うん…そうだったね。」


私は、画面に表示された加納君のファイルの「うつ」「休職6か月」という文字を目で追いながら答えた。


「最近の営業課は無茶させてないと聞いていたんだけど。」


3年前、新任の営業課長が「張り切りすぎて」無理な営業を課員に強いた結果、加納君ともう1人が立て続けに心身に変調を来してしまった。

社長の方針が、意欲のある人間には自由にやらせる、ということだったこともあり、私を含めて全員が目をつぶってしまったのだが、ある日労基署からの連絡で事情が変わった。

根が善良で、一部の口の悪いのに言わせると小心な社長はすぐに営業課長を交代させ、それ以来体調を崩した社員はいないはずだ。


「ぬいぐるみが、廊下を、ね。社長に報告する前に本人に確認した方がいいのだろうが。」


そう言って、小山さんの顔を見る。


「解りました。私からそれとなく聞いてみます。」

「悪いけど、お願いします。」


3年前から、こういう仕事はうちの担当になってしまった。

社員を守る、といえば聞こえはいいが、社内から恨まれる、とも言える仕事だ。


ぬいぐるみが廊下を歩いて苦しい仕事を持ってきた、そんなイメージを思い浮かべた私は、ミスマッチさに苦笑いするしかなかった。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぬいぐるみが廊下を歩いて @aqualord

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ