狩人の子・イラガ
イラガは獣人である。よく手入れされた毛並みと、フワフワとした長い尻尾を自慢にしている、ごく普通の獣人だった。年若く、まだ一人前とはいえなかったが聡明で、狩りも上手だ。
獣人とは、狼をそのまま二足歩行にしたような種族である。身長は人間よりも少し低い程度で、五指や肩も人間に近い。頭を守るための髪が伸びてはいるが、長い尻尾や頭頂部付近に立った三角の耳などの特徴は、狼からそのまま受け継いでいる。
明るい茶色の毛皮に包まれたイラガの体は、女性らしい丸みを帯びてきたところだ。髪は短く切られて、狩りを邪魔しないように整えられている。胸はまだまだつつましいが、そのうちに発達してくることだろう。
衣服は伝統的な麻のシャツに、腿のあたりまでを覆う革のキュロットをつけている。いかにもシンプルであったが、腰ひもの結び目を流行のものにしたり、胸飾りをカラスの羽で格好良くしたりとオシャレにも気を使っていた。
獣人は、人間社会でも認知されていた。人間とまるきり同じとはいかずとも、知能もあり戦うことも働くこともできる。
大きな街では変わり者の獣人が人間たちに混じって暮らしていることもある。それはさほど珍しいことではない。
とはいえ、まだまだ多くの獣人たちは閉鎖的であった。
緑豊かな山や森の中に小規模な集落をつくり、そこで狩猟生活をして一生を送る者が大半である。
イラガは若く、はつらつとしていた。いつでも元気で集中力がある。それが狩りに生かされていた。
これで男であれば、集落を率いるような存在になっただろうと誰もが考えていたくらいである。容姿も十分とあって、今のうちからもう嫁にしたいと考える者も多かった。
彼女自身、狩りを通じて集落に貢献する一生を送るのだろうと信じていたくらいである。
しかしそうはならなかった。
イラガを襲った最初の違和感は、かゆみだった。
狩りから戻ったとき、手足にかゆみがあった。見てみれば、毛皮が少し荒れていた。
そのときには虫に刺されたものだとおもって、気にもしないでいた。ずいぶん刺されたと思って爪でかきむしっただけだ。
すぐに治るだろうと考えていたが、徐々にかゆみはひどくなった。
(こんなにかゆいなんて、おかしい?)
そう思った時には、遅かった。二日もしないうちに皮膚がかぶれ、体毛が抜け落ちていく。
(えっ、なんで?)
こんな症状は見たことがなかった。あせって湯につけても、油を塗っても、ほとんど効かなかった。どういうわけかはわからない。
それにかゆい。たいへんなかゆみだった。
ただ事ではないと思って、他人に相談しに行く。すると、騒ぎになった。
「イラガ、なんだそれは!」
「近寄るんじゃない、俺の家にさわるな、伝染するだろ!」
右手から肘までごっそりと皮膚が荒れ、がさがさの表皮がむき出しになっている。かきむしったせいで血が出ているところもある始末だ。
どうにもならないので集落の人々に相談に行った結果、気味悪がられて、遠ざけられてしまった。
「かゆくって……薬とか何か、ありませんか」
「知らん知らん、治るまで家から出るんじゃない!」
とりつく島もなかった。獣人たちはイラガを恐れた。
次の日には二の腕まで達した。だんだんひどくなっている。
獣人たちは子供をのぞいて、夫婦で暮らすことが多い。未婚のイラガは、家にひとりぼっちだ。考えられるだけの処置をしてみたが、まったく通じなかった。悪化していくばかりだ。
体毛が抜け、皮膚がかぶれ、腫れあがった奇怪な容姿。
少し前までのイラガはモコモコとした毛におおわれた暖かな姿であったのに、今やどうだ。
獣人とも思えない、もちろん人間でもない。そのような身体になってしまったのだ。
イラガは衰弱した。身体よりも先に心がまいってしまった。
全身の尋常ではないかゆみで、寝ていることさえできない。食べることも、眠ることも阻害され続けてしまった。
そのうち集落でも忌避されるようになった。イラガの身体からは、髪もほとんどの体毛も抜けてしまっていたのだ。
(かゆい! かゆくて……眠れないし、何もできない……!)
かきむしってはダメだ、と考える気持ちはもうなかった。耐えられないのだ。
指先はボロボロになり、腫れて膨れ上がり、毛皮はボロボロになった。
「イラガに近づくな、呪いがうつる」
そのようなことが言われるのに、それほど時間はかからなかった。
あまりにもかゆくて、動けない。
狩りに行かなくてはならないが、ろくに動けない。それどころか、そう考えることすらままならなくなっていた。
(顔も、手も、足も……もうだめだ。もう私は、だめなんだ)
藁に潜りこんでも、冷水をかぶっても、湯につかっても、だめだった。
獣人たちの間で使われるような治療法は試したが、全く効かない。
自分の手足や身体から毛が抜け落ちて、戻らない。
変わり果てた自分の姿が、イラガから気力をごっそりと奪い去っていった。醜い姿を隠そうと、麻の生地をフードのようにかぶって、藁に潜り込んで過ごした。
「イラガはだめだ。呪われてしまった」
「他の者に呪いがうつるのはいけない。捨ててこい」
あっさりと、獣人たちの集落はイラガを切り捨てることを決めてしまった。
本人にもそれはすぐに伝えられた。
「すまんがイラガ、集落から出て行ってくれるか」
このように言われるのは、イラガにはわかっていた。
誰だって、こんな醜い姿になる奇病にかかりたくはない。
「どうする。歩けるか? もしお前が歩けないようなら、殺して燃やすように言われている」
「……だいじょうぶ、歩けます」
かなり衰弱していたが、朦朧としながらもまだ歩くくらいはできた。イラガは両足に力を入れて踏ん張り、どうにか立ち上がる。
崩れ落ちそうな下半身を必死に支えて、ふらふらと家からでた。
すると獣人の一人がイラガの家に火をかけた。
イラガの背後で、暮らしてきた家が燃え始める。
信じられない、とイラガはそれを振り返って見た。
集落の獣人は、誰一人として誰も火を消そうとしてはいない。
絶望的な思いをかかえて、集落を出て行く。
もう、ここにイラガの居場所はなかった。
獣人たちはイラガを見送る。やっとあの恐ろしい姿がいなくなる、という安堵とともに。
イラガには行く当てもない。そのうちに力尽きて倒れるだろう、と自分でも思っていた。
身体はよくない。かゆいのだ。
こうなってもなお、ずっと、かゆみは止まらない。
そして、眠い。
眠れないからだ。あまりのかゆみに。
(私の身体はどうなったんだろうか)
何が原因なのかもわからないまま。ボロボロに破れて、あちこちから血が流れ、痛みもかゆみも止まらない。昼も夜もそれに悩まされ、我慢し続けるかかきむしり続けるかしかない。
そして、治るような見込みはない。
そう気づいた時には、イラガは生きる気力を失っていた。どうあがいても、このまま苦しみ続けて死ぬだけなのだ。
たとえ死なないとしても、こんなにも変わり果てた姿を、どこの誰が受け入れてくれるというのだろうか。ぼろぼろの身体を引きずり、耐えがたいかゆみと痛みに耐えて生き延びたところで、それがなんになるというのか。
どうにもならない身体を引きずるようにして歩き続けて、かゆみの止まらない背中を木や地面にこすりつけながらも、イラガは歩いた。
もう、頭から爪先まで毛は一本も残っていなかった。体中の皮膚が荒れて、ただれていた。
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