家庭の事情
如月姫蝶
家庭の事情
「あの、はじめまして。私、このたび隣に引っ越して参りました、
念願の法科大学院に合格して、その近くの民家を伯父から相続したというわけだ。
そんな私が、お気に入りの花柄のスカートを纏って挨拶回りをした、その日の夜のこと——
「なんで、あんたいう子は、お母さんの言うことが聞けへんの! せっかく綺麗なお洋服を着せてあげてんのに、なんでこないに汚してしまうん!?」
隣家の片方である
翌日、私は、もう一方の隣家である町内会長さんのお宅に、相談に伺った。
「山田さんとこで児童虐待?」
「はい。母親を名乗り子供を怒鳴りつける女性の大声が聞こえたため、そう推定しました。ご存知の通り、児童虐待に関しましては通告義務がございますが、私が電話で通報したものの、児童相談所が動く気配が無く……」
ご町内の事情通に違い無い会長さんに相談しようと、私は思い立ったのだ。
「ふん! 木ぃで鼻くくったみたいな東京訛りやなあ!」
かつて老舗の女将だったという会長の言い様は、全力の右ストレートのごとく強烈だった。この界隈の古老は標準語をそのように蔑むという予備知識が無かったなら、呆気無くノックアウトされたことだろう。
「まあええ。あんた昨日、山田さんとこにも挨拶に行ったんやろ? そん時、大声の主の姿は見えたんかいな?」
「いいえ。応対してくださったのは、中年の男性お一人でした」
「ふん! 声はすれども姿は見えずかいな! あんたも中途半端なお人やなぁ……」
私は、山田家から姿を現した男性について思い返した。彼は、庶民的な部屋着を纏い、スマホを手にしていた。私の挨拶のうち、「姪」という一語にだけは反応して顔を上げたが、それ以外はスマホを操作しながらの生返事だった。どうやらゲームの佳境だったらしい。
「ああ、あの人は、いっつもゲームばっかりや。大方、世間に顔向けできひんから、スマホばっかり見てるんやろうけど」
幸か不幸か会長は、私にだけ厳しいわけではないようだった。
「あんた、母親の怒鳴り声を聞いたぁ言わはるけど、子供の声は聞こえたんかいな?」
「いいえ……」
会長は、痛いところを突いてきた。昨夜通報した際にも確認された点だ。
率直に言って、被虐待児の声は聞こえなかった。ただ、私自身が実両親による虐待のサバイバーということもあり、通報せずにはいられなかったのだ。
子供の声が聞こえなかった以上、例えば、女性が怒鳴りつけていた相手が成人ということもありうる。だとすれば、児童虐待は成立しない。なんなら、あの中年男性との夫婦の営みの一環として怒声を発したなんて可能性もありえないわけじゃない。
「山田さんとこに、お子さんはいいひんよ、今はもう……」
暫く逡巡した後、会長は言った。
「女の子が一人いてたんやけど、十年以上も前に亡くなってしもた。ただ、母親は我が子が
私は、雷のような衝撃に撃たれた。
しかし、会長の言うことが事実なら、その母親にはメンタルケアが必要なのではないだろうか。
「母親を病院に通わせろ言うんかいな。けど、どうやって? あの母親かて、五年前に死んではるんやで?」
私の頭上には、さぞや巨大な疑問符が浮かび上がったことだろう。
「子供は、十年以上前に殺されてもうた。母親は、病院通いかてしてたけど五年前に自殺。父親がつい最近出所して、我が子を殺したあの家で一人暮らしっちゅうわけや! 見えも聞こえもせえへん
うちは陰陽師の末裔やよって、見とうもないもんまで見えてしもて、気苦労が絶えへんいうのに……」
「え!? それって……」
かつて会長さんが女将だった老舗ってそういう?
それってしかし、いくらこの界隈がかつて千年の都で陰陽師の本場だったからって、鵜呑みにできるような話ではなかった。
そもそもいわゆる霊感なんて、私には無いはずで……
しかし、質問を重ねようとした私に、逆に彼女は訊いたのである。
「あんなあ、小川さんは生前、家を甥っ子に譲るつもりやぁ言うてはったんやけど?」
「あ……私、当時はまだ甥だったんです。姪ではなくて」
「そのスカートも、伯父さんのんか? こっそり穿いてはったんを見たことがあるんやけど」
「……お察しの通りです」
「さよか。家庭の事情も、人生も色々やね」
陰陽師の末裔かもしれない会長は、さらりとまとめたのだった。
家庭の事情 如月姫蝶 @k-kiss
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