まだここに


「何してたの?」


 リビングに戻ると、キッチンで食器を洗っている結衣が言った。ラルフが足に顔をこすってくる。


「小説を書いてたんだよ」

「小説う?」怪訝な表情をした。「どうしたの? 急に」

「整理をつけようと思ってさ」僕はキッチンの正面にある掃き出し窓からベランダに出る。「ここってさ、真黒さんのアトリエから見える景色と少しだけ似てるよね」僕らは今海の近くにあるマンションに住んでいる。


 キッチンにいる結衣には僕の声は聞こえていなかったようだ。食器を洗う音も聞こえない。


 料理は相変わらず僕がやっている。鳴子さんの味を知ってしまうと、どうも自分の料理に自信が持てないから駄目だ。結衣は美味しいと言ってくれるが、決して鳴子さんの料理より美味しいとは言わない。年の功というやつだろうか。


 そういえば、鳴子さんも一年ほど前に亡くなったらしい。僕は、知るのが遅すぎたんだと思う。鳴子さんや真黒さん、それに筈華はその一生のほとんどをあの島の中で過ごしたのだろうけど、結衣や霞ちゃんや野茨さんはそうもいかない。実際にはできないこともないのだろうけど、見える景色はがらりと変わる。本来育った場所はそこにあったとしても環境はおそらく全くの別物になっているだろう。


 大人になってしまった、としみじみ思うのだ。あの頃は、瀬戸際にいた。ただそういう時期だったというだけの話なのかもしれない。大体、二十年単位で変わっていくのだろうか。ただ、大人になるだけだと思っていた。でも実際は、自分だけが何も変わらずに、周りの全てが変わっていく。そして段々と自分もそこに追い付いていく。


 手に持っていたスマホが震えた。まきだ。


「はい」

「あー。るか」なんだかこもった声だ。

「なに?」

「俺さ、結婚することになったんだ」

「ああ、そう」

「反応薄いな」

「結婚式するの?」

「ああ、うん。しようと思っててさ」変わらずこもった声でベランダに出ていては聞こえにくい。「楓ちゃん。呼べないかなあって」

「図々しいな。だから電話してきたのか」

「しょうがないだろっ。一生に一度だぞ」まきの声が途端に大きくなった。


 瑞樹楓、大人気のシンガーソングライターだ。路上ライブをしていたあの女性が、今や知らない人はいないというほどの有名人になっている。


 もう何年も前、僕が大学を卒業した頃だったと思う。テレビで大きく取り上げられている彼女を見た。居る場所が違うな、と不快感のような、嫌悪感のような、まあプラスの感情は持たなかった。数年前に再会して、今では結衣も僕も普通の友人だ。


「まあ、ちょうどこの後会う予定だったから、聞いてみるけどさ」

「ほんとかっ、でも、ちゃんと水落さんには言っとけよ?」

「僕も水落だよ。それに、一緒に行くから」

「ああ、そうかそうか」

「じゃ」電話を切った。


 足元で僕の顔をジッと見ていたラルフを抱いて、部屋の中に入る。食器を洗い終えた結衣がソファーに座っていた。


「まき、結婚するんだって」

「えっ」結衣が突然声をあげるものだから、ラルフが僕の腕の中から飛び降りた。「聞いてないよっ?」

「そりゃあ、今聞いたんだから」

「智花何も言ってなかったよ?」

「恥ずかしかったんじゃない?」

「えー」

「それでさ」結衣の隣に腰を下ろす。「楓さんを呼んでほしいんだって。結婚式に」

「図々しいね」

「それは僕も言った」

「でもちょうどいいじゃない。この後に聞いてみれば」結衣は背もたれに体重を乗せた。

「うん、そうだね」


 今の時刻は朝の十時。楓さんとの待ち合わせは十二時なのでまだそれなりに時間があった。


 ぼーっとテレビに映るニュース番組を眺めていると、十一時ごろから瑞樹楓にインタビュー、なんてでかでかとした宣伝が流れる。餌に群がる鳩のよう。


「すごいよねー、ほんと」感心したような声が聞こえてくる。

「うん、そうだね」ソファーの前にある机の上に置いてあった小説を手に取る。「お母さん、凛空を預けちゃって大丈夫かなあ」

「大丈夫だよ。この時期は観光客も少ないからね。それに、孫ができてすごく喜んでたじゃない」

「そうだけどさあ。それとこれとは別じゃない?」

「いいのいいの」

「そうですか」









「お。来た来た。るかと結衣、久しぶり」


 約束の時間に待ち合わせ場所だった喫茶店に行くと、楓さんの隣には野茨さんが座っていた。楓さんは控えめに頭を下げた。


「茨も来てたの?」

「久しぶり、野茨さん」

「そりゃあ、結衣とるかに会いに行くって聞いたから、私も行くしかないなと」


 僕と楓さんが再開するきっかけになったのは、野茨さんだった。なんでも、楓さんはダイビングが趣味だったようで偶々野茨さんが勤めているダイビングショップに行ったらしい。そこで、楓さんがカラスの話をした。カラスが繋いでくれたと言っても過言ではないかもしれない。そう言うのであれば、真黒さんか。


「そういえば、凛空くんは大丈夫なんですか?」楓さんがオレンジジュースを一口飲んでからそう言った。

「大丈夫だよ。昨日からお母さんのところに泊まりに行ってるから」

「あ、そうなんですね」また、オレンジジュースを飲んだ。「最近、パレットちゃんがよく遊びに来るんですよ」楓さんが笑った。


 カラスのことを楓さんはパレットと呼ぶ。


「僕らのところにも来ますよ。家にはラルフもいるし」

「そういえばるか。浮く絵たちはどうしたの?」

「ああ」僕は真黒さんとの約束通りに、浮く絵を島の外へ持ち出した。カラスの島に置いてきた子たちもいるが、出たければ勝手に島から出れる子たちだ。「真黒さんのアトリエみたいに、家の中で自由にさせてたんだけど今はラルフしかいないな」

「みんな好きにやってるんじゃないかな」


「大丈夫なんですか? それ」楓さんは不安そうな表情だ。

「大丈夫でしょ。カラスだって、飛び回ってるじゃない」野茨さんは奥歯でガムを噛んでいるような顔で言った。今でもじじ臭い。というか磨きがかかっていた。

「そうだ。楓さんさ、僕の友達が結婚式をするんだけど、楓さんに来てほしいんだってさ」

「ああ、まきさんですか?」

「そうそう。よくわかったね」

「るかさんの友達と言ったらまきさんくらいですから。いいですよ。日時が決まったら教えてください」


 楓さんは一瞬の迷いもなく承諾した。まあ、僕も断られるとは思っていなかったのだけれど。


 一時間ほどくだらない話をして、喫茶店を出た。


 秋に片足を踏み入れた空気はまだ少し汗ばむ熱を持っていた。


「ねえるか。筈華のこと、まだ覚えてる?」野茨さんが、言った。

「そりゃあねえ、覚えてるでしょ」

「どうしたの? 茨」

「いや、何でもないんだけどねえ」

「羨ましいな」楓さんが言った。「私、曲を作って歌ったりしてますけど、るかさんも結衣さんも茨さんも、聞いたことないでしょ?」

「一回くらいはあるよ」

「私も」

「私は結構聞いてたよ。最近はもう聞いてないけど」

「ほら」楓さんは笑った。「誰も、求めてなんかいないんだもの」


 カラスが、僕の肩に留まった。本当に、いつもこいつはどこから現れているのやら。


「カラス、来たんだ」

「あ、パレットちゃん」


 結衣と野茨さんは、カラスの方を向いたが声は出さなかった。


 今の僕には、このカラスが黒く見えるのだ。透明でもないし、何か綺麗な色がついているわけでもない。


 ただ、僕の肩を掴む足には、ミサンガが巻かれていた。




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