優しいカラス

 傘を差すか差さないか、迷うというか若干差さない方に天秤が傾く程度の雨が降りだした。真黒さんのアトリエを後にして、僕は急坂を下る。


 不愉快だった。ひたすらに不愉快だった。どこかで見たような景色が、真黒さんのアトリエにもあったからだ。大人が泣いている。ただそれだけのことなのに、なぜこんなにも心は、荒れ、爛れるのだろう。


 二十歳を過ぎて、いや高校生の辺りから勘づき始めてはいたのだけれど、世の中の大人は思っていた以上に子どものままだ。二十歳を過ぎて、酒が飲めるようになった自分を眺めていればすぐにわかる。ある程度、対等な位置に立てるようになって、そこで相手と向き合えば嫌でも気づく。泣くさ。そりゃそうだ。大人は間違えないと思っていた時期があったなあ、と最近はよく思い出す。


 真黒記念館。いつか筈華が言っていたが、その名前は、筈華の優しさなのだと思った。理屈を抜きにした、理由もない、無条件、そういうものなのだろう。人間が与えられる最上級の優しさが、それなのだろう。真黒記念館という言葉には、何の意味もないのだ。ただそれだけが、そこにあるのだ。真黒さんのさっきの涙は、どんな感情が絞られたものだったのだろう。もしかしたら、後悔や自責ではなく、喜びだったのかもしれない。筈華の救いに乗りたがる自分と、それを拒む自分との闘いの途中で流れ出た汗なのかもしれない。何はともあれ、今は筈華に会いたいと思った。


 船着き場を通り過ぎる。雨が降り出したこともあってか、人通りは全くない。静かな島だと、思った。このくらい狭い世界で生きた方が気楽なようにも感じられるけど、それはそれで辛いものなのかもしれない。


 結衣はもう筈華のところに行っている。結衣と僕は一緒に旅館を出たのだけれど、僕だけが真黒さんのアトリエに行き、結衣はまっすぐ筈華のところへ向かった。野茨さんが心配だったのだろうか。よくわからないが、まあそんなところだろう。


 トン。と、軽い音が鳴った。


 目の前には、カラスがいた。カラスと視線を合わせようとしゃがむ。「パレット、て言うんでしょ? 君」話しかける。


 カラスは綺麗な瞳をくるくると動かすだけで何も言わない。当たり前と言えばそうなのだけれど、何か話してくれるような気がしたのだ。カラスとじっと見つめ合っていると、カラスの身体が段々とオレンジ色に色付いていった。


「綺麗な色だね。それは、何の色なの?」オレンジジュースのような、単調で味気のない色ではなく、太陽に照らされ光るこの島の海のような、澄んだ輝きを持った色だった。その色は動いているようにも見えた。今は雨が降っているから、海は濁った色をしているが、カラスはそれでも綺麗だ。「やっぱり、君と話がしたいな」


 カラスは、首をくりくりと動かした後、跳ねるように二、三歩、歩いた。すると振り返って、また進む。「ついていけばいいの?」僕がそう言うと、カラスは勢いよく羽を広げて飛んだ。砂浜の方へ降りていって、僕の視界から消えた。僕も、階段を下りて砂浜に出ると、カラスが砂浜に足をつけて待っていた。


 カラスは僕が目の前まで来ると、雨で少し湿った砂にくちばしをさして動かす。


 なに はなすの


 カラスはそう書いた後、僕の顔をジッと見た。


「おお、言葉はわかるんだ」大きな声が出た。曲線を書くのが大変そうで、何度も体の位置を変えていた。


 うん わかる


「律儀なんだね」カラスがジッと僕の方を見てきて、そのまま動かなかった。数秒考えて、手で砂をならした。手に砂がべっとりとついて重さが感じられた。「あってる?」


 うん


「また、消さないとじゃないか」


 ごめん


 思わず吹き出してしまった。「誰かと話したことはあるの?」


 ないよ だれも はなしたいなんて いわなかったから


「君って、意外と子どもっぽい話し方をするんだね」カラスの首に指を伸ばして、少しくすぐってみた。カラスは嫌がる様子は見せずに、目を細める。「口では話せないの?」砂を手でならしながら言う。


 のどのしくみがちがうから したもちいさい ことばにはならない


 カラスは、「カー、カー」と鳴いた。よく聞くカラスの鳴き声そのままだ。

「なるほど。君、多分僕より頭いいよ。じゃあ、インコとかはその喉の仕組みとかが人間に近いってことなのかな」


 それは しらない


「そっか」霧吹きで吹いたような雨が顔にかかって鬱陶しかったので、顔を少し顰めた。


 るか だいじょうぶ はてな


「はてなって書いた方が楽なの?」僕は肩を揺らしながらそう聞いた。手で砂をならす。「僕ね、これから筈華のところに行こうと思ってたんだ」


 いろいろ いわれても こたえられない かくのも たいへん


 一分ほどかけて、そう書いた。するとカラスは海の方へ飛んで行って、くちばしだけを器用に海につけた。くちばしについた砂を落としているようだ。真っすぐ、空中から落ちるようにカラスは僕のもとに帰ってきた。


 はずかが しぬのは かなしい


 そして、カラスは、くちばしでそう書いた。

「そうだね」カラスは僕の返事を聞いているのか聞いていないのか、くちばしを必死に動かしている。


 でも とぶよ それしか できない 


 カラスはまだくちばしを止めない。文字数が増えて、移動しながら砂浜に文字を書き続ける。


 おとうさんが いった


「お父さんていうのは、真黒さんのことなのかな?」僕が問いかけても、カラスは気にすることなくくちばしを動かし続ける。つまりは、おとうさんは真黒さんで合っているということだろう。


 せめて おまえだけは って


 小さい「つ」を書くのがやけに大変そうだった。何かカラスなりのこだわりでもあるのだろうか。


 あきらめないで ほしい って ただ とべばいい って そのおかげで かわらないものが あるから って よく わからない けど しんじてる るかも ぼくを みたとき わらってたから


 ゆっくりと歩いて、くちばしを必死に動かすカラスを追う。「僕、笑ってたかな?」カラスはまるで震えているかのように首を振った。「どっちだよ」

 カラスは海の方に飛んでいき、くちばしを洗った後で、僕の肩に留まった。肩が少し冷える。「会話は終わり?」


「カー」とカラスは鳴いた。


「そうですか。じゃあ、筈華のところに一緒に行こう」

 カラスを肩に乗せたまま階段を上り砂浜を出る。カラスは肩に乗っているのだけれど、重さはあまり感じない。肩が痛くなるかもと心配する必要はないようだ。


 小雨は段々と強くなってきた。結衣の旅館で借りたビニール傘をさす。病院までの坂をゆっくりと歩いていると、前から小さな人影が近づいてきた。傘をさしていないから、髪が濡れてしまっている。


「霞ちゃん?」僕がそう声をかけると霞ちゃんはゆっくりと視線をあげて、目が合った。

「あ、るかさん」名前を呼ばれたことに驚いた。霞ちゃんと会ったのは僕がこの島に来た時以来だったので、忘れられていると思っていた。「筈華くんのところに行くんですか? カラス、肩に乗せててかわいいです。綺麗な色」霞ちゃんは笑った。


「そうだけど、傘ないなら貸すよ?」言って気づいたが、この傘は僕のものではなかった。

「大丈夫です。私の家ここから近いんですよ」


 霞ちゃんはそう言うが、背負っているリュックサックが濡れていた。「でも、教科書とか濡れちゃわない? 筈華のところで勉強してたの?」

「はい、茨ちゃんと結衣ちゃんに教えてもらってました。教科書とかは大丈夫です。ビニール袋に入れてありますから」霞ちゃんが背中のリュックサックを叩くと確かにビニール袋の音がした。


「ああ、そう」

「はい、それじゃあ」霞ちゃんは雨の中を進んでいった。


 霞ちゃんの背中を数秒眺めた後、肩に留まるカラスに視線を向けると、カラスの身体がゆっくりと変色している真っ最中だった。今の空のようなどんよりとした灰色だ。この色も、動いているように見える。


「君、そんな頻繁に色変わるの?」カラスはぶるぶると首を振った。もしかしたらただ震えただけかもしれない。「どっちかわからないなあ」


 肩にカラスを乗せたまま病院に入る。高齢者の方が何人かいて、目が合った人もいたが、不思議とカラスには触れられない。カラスの方を見向きもしない。見えていないのだろうか。


 真っ白な床を進みながら、筈華の病室まで歩く。二階の一番端の病室の引き戸を開いた。「あ、るかくん」筈華を挟んで手前側にある椅子座っている水落が振り向いて言った。


「遅くなっちゃった」僕は笑いながら言う。「ごめんね」

「明らかに寄り道してたでしょ?」窓側に座っている野茨さんは、足を組んで本を読んでいた。筈華は寝ている。最近はいつもこの調子だ。目を覚ましていても、会話すらままならない。筈華自身も目を覚ましていることを自覚していないのかもしれない。「カラス肩に乗せて、大道芸でもするの?」

「しないよ」水落の隣に椅子を置いて座る。「筈華、ずっと寝てたの?」

「結衣が来る前だけど、一回起きたよ。落ち着いてた」野茨さんの顔はすっきりしていた。

「そっか。よかった」

「何が?」野茨さんは訝しげに横目で僕を見てくる。

「なんでもないよ」肩に乗るカラスの首を撫でる。


 雨の音がかすかに聞こえてきて、それは流浪橋で聞く川の流れる音と似ていると思った。結衣の旅館からでは聞こえないんだ。流浪橋にまで行かないといけない。その音をここでも聞くことができるのは、なんだか特別だなと思う。


「そういえば、真黒さんのアトリエ、浮く絵が増えてたよ」

「そうなの? 私も今度行こうかな」水落が言った。「もう一週間くらい行ってないかも」

「るか、もうそろそろ帰るんだっけ?」

「そうだけど、水落も帰るんじゃないの?」この島に来て、もう三週間も経っていた。

「うん、私も一緒に帰るよ。バイトも休みすぎちゃいけないしね」

「一か月はだいぶだよ」僕がそう言うと、水落は笑った。野茨さん薄っすらと笑みを浮かべている。


「暇になるなあ」野茨さんが呟く。「一応、仕事はあるんだけどね」

「島出た後の仕事とか決まったの?」水落が聞く。

「いーや。なにもやってない」顔をしかめながら言う。

「ならいいじゃない。ちょうどいいや」溢れんばかりの時間ができる。限られた時間が。「水落は決めたの? どうするか」

「それはるかくん次第だなあ」わざとらしく水落は言った。野茨さんはからかっているような、ただ笑っているだけのような、よくわからない表情をしている。肩のカラスは、これでもかと真っ赤に染まった。


「こいつ、こんなに色が変わる奴だったの?」

「あ、口が悪くなった」

「るか、わかりやすいなあ。そういうのは中学生までだって教えたじゃない」

「じじ臭い野茨さんには言われたくないね」隣で噴き出す音がした。野茨さんは何を言われたのかわかっていないのか、目を丸くしている。

「こんな島で育ったんだから、そうなるのは仕方がないんだよ」野茨さんの頬は薄っすらと紅く染まった。隣を向くと水落と目が合った。僕らは笑った。


 肩のカラスがツンツンと僕のこめかみの辺りをつついてくる。痛くならないように細心の注意を払っているのがわかるつつき方だが、それでも少し痛い。「どうしたの?」カラスはくちばしをぐるぐると回したり、動かしたりする。


「何か書きたいってこと?」カラスは身体をぶるぶると振った。「どっちかわかんないよ」

「書くって?」水落が目を光らせながら聞いてきた。

「カラスとね、少し話してたんだよ」

「話す?」興味なさそうにしていた野茨さんが声を出した。恥ずかしさを誤魔化していたのかもしれないと思った。

「そ、砂浜に文字書いてもらってさ」

「へー、どうやって書くの?」

「わかった、くちばしだ」

「正解」水落はよしっと手のひらを握った。


 野茨さんと水落は何か砂浜の代わりになりそうなものを探している。紙とボールペンならあるのだけれど、それではカラスが文字を書くことはできない。といっても、ここは病室だ。


「じゃあ、これでいっか」野茨さんはボールペンの中からインクを取り出して、床に置いた紙の上でそれを折った。じじ臭いというか、大胆だ。インクが漏れて紙の上に広がる。インクが紙から出ないように四つ角を野茨さんは器用に持った。「よし」

「ちょっとインク床についてるけど?」紙からインクが垂れて、白い床にほくろのような点を作っていた。


「拭けばいいの」野茨さんは水落にもう一枚紙を床に置いてもらい「ほら、書けるよ」と言った。カラスは黒いインクだまりに、水を飲むかのようにくちばしを入れた。


「くちばし黒くなっちゃう」水落が言うがもう遅い。わかっているのかわかっていないのか、よくわからない表情でカラスは一度水落を見て、すぐに真っ白の紙と向き合う。


 カラスは紙に文字を書こうとくちばしを紙に着けたが、くちばしを動かすと同時に紙も動いてしまう。僕が紙を抑えて、カラスはもう一度紙にくちばしをつけた。


 はずか あしたは げんき だよ


 跳ねるように動きながら紙にそう文字を書くと、満足そうに僕ら三人の顔を順番に見た。

「わかるの?」僕が聞いた。紙を裏返して、カラスの反応を待つ。野茨さんが持つインクだまりに顔を入れて、カラスはまたくちばしを紙にあてた。


 うん


 カラスがそう書いたとほぼ同時に水落と野茨さんが思わずといった様子で笑う。カラスは僕の顔を見て首を傾げた。そんなカラスを見て、二人はまた笑う。


「はあ、そんなに可愛かったのか」野茨さんは目尻を触りながら言った。「筈華、明日は元気なんだ」


 野茨さんの表情に影が差した。水落の表情からも笑顔は消え、視線は重力に従い落ちている。きっと、二人も僕と同じでなんとなくわかるのだろう。明日が、きっと僕らが筈華とまともに話せる最後の時間なのだと。


 感覚的なものに違いはないが、そう言った感覚に敏感になるべきだろう。特に今は。


 その感覚を見逃したら、もう筈華はいないのかもしれないのだから。


「るか」

 野茨さんの空気にそのまま溶けてしまいそうな声を拾う。「なに?」

「その後も、るかは筈華のことが見えるの?」

「それは違うよ。見えるはずがないじゃない」


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