それを今は、静かに眺める


「真黒さん。結構描きましたね」数日ぶりに真黒さんのアトリエに行くと、そこには鷲や梟、白鳥などがいた。ベランダの柵に並んで留まっている。おまけに、少し頭をひねって考えたのか、イルカやシャチなどが空中を泳いでいた。「描くペース考えてくださいよ。真黒さん、まだ死ぬ予定ないでしょ」


 黄金に輝く鷲や三つ目の梟、アヒルのような大きさの白鳥。シャチのような模様をしたイルカ、イルカのような模様をしたシャチ。イロワケイルカとシャチだろうか。なんだか自分でもよくわからなくなってきた。


「確かにそうだね。そろそろ罪悪感のようなものが湧いてきたよ。久しく味わっていなかった感覚だ」

「そうですか」


 いつものようにベランダに通じる掃き出し窓は全開だった。外の天気はどんよりとしていて、灰色の雲が分厚く空を覆っている。不快な湿気が生暖かい空気と混じって、それはもう気持ち悪い。


「今更ですけど、日差しとか湿気とかって大丈夫なんですか? その、絵とか」

「私もよく知らないな。私の絵は、みんな好き放題動くし」肩に乗せているカエルの顎を撫でた。

「まあ、そっか」足元にラルフが来た。顔をあげて、僕の目を真っすぐ見てくる。「最近、筈華の調子よくないですよね」


「もとからよくなんてないけどね」真黒さんは絵の具のついた筆をキャンバスに走らせている。何を描いているのかは、ここからではよく見えなかった。「それでもまあ、なんだろうね。感覚的なものかもしれないけど、とびきり弱ってきたような気はする。体というより、もっと深いところが」


「そうですよね。最近は、筈華来てるんですか?」足元にいるラルフを抱き上げる。

「三日に一回ってところかな。この調子じゃあ、死んだ後は筈華には会えそうにない」

「野茨さん。大丈夫かなあ」

「茨がどうかしたのかい?」

「まあ、いつからかな、多分前に花火をしたときくらいから、あんまり眠れてなさそうで」

「そうかあ。何かあったの?」真黒さんは筆をとめた。

「さあ、僕は野茨さんではないのでわかりませんよ。でも、筈華が少し寂しそうだったからかもしれません」

「なら大丈夫だよ。筈華と茨は勝手に色々するさ。問題ない」真黒さんはまた筆を動かし始めた。


「すごい今更ですけど、筈華と野茨さんって付き合ってるんですか?」ラルフを抱いたまま、他の浮く絵たちがいるところに腰を下ろす。リコが寄ってきた。リコは黄緑色の犬の名前だ。

「まあ、似たようなものだろうね。聞かなかったの?」真黒さんは横目で僕を見てくる。

「聞けないでしょ。流石に」

「それもそうか。筈華は大人しくて泣き虫な子だったからね。茨にはすごく感謝してるよ」

「は?」大きな声を出してしまって、膝の上で丸くなっていたラルフが飛び跳ねた。「ああ、ごめんね」


「びっくりしたかい? なんていうんだろうね。今のような元気さというか快活さみたいなものもあったにはあったんだけど、やっぱりごちゃごちゃしてたんだろう。何でもかんでも抑え込むことが多かった。」


「病気を機に変わったとかですか?」今度はリコが僕の膝に乗っかってくる。

「そういうわけでもないんだよ」真黒さんは筆をおいてしまった。「私がねえ、言ったんだ。筈華の父親のことは、もう聞いた?」

「筈華を真黒さんに預けて島を出ていったって」

「そう。何も間違ってはいないんだけどさ。私が言ったんだよ、どうしても耐えられないなら、島を出ればいいって」真黒さんは大きくため息を吐いた。表情がなくなった。「責任なんてものは存在しないんだって、全部、嘘だからって」


「何に耐えられなかったんですか?」

「さあね。きっと、大したものではないだろうけど、それが大きく見えたんだろう。とてつもなく」真黒さんはまた筆を持った。「そのことを筈華に直接言ったときからだよ。筈華が、ある意味ですっきりしたのは。たくさん泣いて、泣きながら家を出て、茨と一緒に、真夜中に帰ってきたんだ」


「どうして、わざわざ筈華に言ったんですか? そんなこと」

「るか。人間がなすこと全てに理由があると思っちゃいけない。それはあまりにも苦しいからね。みんな、病気なんだ」僕が何も言わずに真黒さんを見ていると、ゆっくりとこちらを向いて、目が合った。目元にしわが寄った。「私は、情けない大人だったってことだ」


「なんの絵を描いてるんですか?」

「ん? ああ、花火をしている絵だよ。これは、浮く絵になりそうにないな」

「どうして僕にも筈華と父さんのことを言ったんですか?」

「私が、そういう大人だからだよ。るか」真黒さんの手から、筆が落ちた。茶色い床に明るい色がつく。「過ぎた孫だよ。筈華は」


 真黒さんは、泣いていた。僕が、胸ぐらをつかんで、崖に追いやったのかもしれない。


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