いつか出会った、誰かに向けて
真黒さんの家を出ると、途端にふわふわと形が見えるような暑さが体にまとわりついてきた。セミの鳴き声が聞こえるたびに、汗が増えていく。真黒さんは、車で送っていこうかと言ってくれたけれど断った。僕は免許を持っているから、僕が運転しても良かったけれど、ペーパードライバー二年目の僕はやはり遠慮しておいた。こんな小さな島で、事故を起こすわけにはいかない。
一歩一歩足を進めるたびにがくっと膝が抜けるような急坂を下りる。暑さも相まって地獄のようだが、耐えるしかない。やはり自分で車を運転しなくてよかった。こんな急坂をいきなり運転したら、たった一つの命はあっという間に溶けてしまうだろう。
坂を下りていくと、段々と少しべとべととした海風が吹いてきた。今はこの生温い海風が天使の息吹のように感じられる。心地いい。
坂を下りて、平坦な道を進む。すごく楽だ。人通りは少ない、というか僕以外に人間はいなかった。もう少し進んで船着き場の辺りまで行けば、それなりに人はいるのだろうけれど。視線を横に向けて、キラキラと光る海を眺めながら歩く。船着き場が見えてきて、その奥の食堂が並ぶ通りには、見慣れない人だかりができていた。おそらくは、あの大学生たちだろう。船着き場にはちょうど船が来ていて、何人かの人が下りてくる様子が見えた。船から下りた人のうちの一人が、迷う様子もなく僕の方へ歩いてきた。ただ、行く先に僕がいたというだけなのだろうから、それは何ら不思議なことではないのだけれど、その人の顔は見たことがあるような気がして落ち着かなかった。だって、いるはずがないのだから。
「るか」太陽に照らされて、だらだらと流れる汗をハンカチで拭っていた。その人は目を大きく開けている。漏れた声はきっと意図したものではないのだろう。
「え、父さん。なんでいるの」攻めるような言い方になってしまった。苛立ちが沸々と湧き上がってきて、それを抑えるように手のひらを握った。どうしているんだっ、ふざけるなっ、そう叫びたかったが、あまりに理不尽だ。自分自身がどうしてここまで苛立っているのか、まったくもってわからなかった。
会ってみれば単純なものである。なぜこんなにも単純なことを嫌がったのだろう。
呆けている父親の顔をジッと見つめた。それなりに老けたな。どことなく真黒さんに似ているような気がする。
「るか。旅行って、ここに来てたのか」やっとのことで出た声は、誰に向けた言葉なのかわからなかった。
「うん。なんでいるの?」ぼそっとした声しか出ない。自分の年齢を思い出して恥ずかしくなった。
「いや、ちょっとね」どうも濁した言い方だ。
お互い、うまく話せない。話すことなど何もないが、立ち去る気にもなれずに向き合ったまま。セミの鳴き声だけが何も気にすることなく鳴り続けていた。
「どこかに行く途中だったのか?」父さんが口を開いた。
「うん」
「どこに」
「病院」
「ああ。何しに行くんだ」
「お見舞いだよ」
父さんは僕がこんなところにいるとは思わずに驚いたのだと思っていたが、父さんは明らかにそれだけとは思えない動揺の仕方だった。口を閉じたり開いたりと中々声が出ない様子だ。
「誰か、友達でもいるのか? 一緒に来てる友達が怪我したとか」
「まあ、そんな感じ」視線を下げたまま一歩足を踏み出した。「じゃあ、もう行くから」
父さんの横をすんなりと通った。通ったようで、自分のどこかしらのかけらが、まだ父さんの隣から動けないような錯覚に陥る。無視をして、足を進めた。
「るかっ」
「何?」
「その友達。名前は?」
「筈華」そう答えて、父さんの方を向いていた視線を戻す。「ねえ、何日かいるの? ここに」
「いないよ。今日帰る」
「そっか」
頭がくらくらしてきた。吐き気もしてきて、ただひたすらに泣き叫びたい気分だった。やっぱり、魂のような根源的な自分は存在するのだろう。だって、自分自身にどこまでも振り回される、そんな滑稽な話があってたまるか。ただ、それだけのことが。何よりも簡単なことが、できない。
何か。色々なものが、終わったような気がした。どこに向ければいいのかもわからない、胸の奥に燻る塊のようなものが膨らんでくる。息が苦しくなってきて、それが体調にむき出しの状態で現れた。日差しが突然牙をむいてきて、僕を焼き殺そうとでもしているのではないだろうか。めまいがしてきた。
大学生の集団の横を通る。やはり、さっき見えた人だかりはこの人たちだったか。
「あ、あの時の」金髪の長身で細身の大学生が僕に声をかけてきた。
「まだこの島にいたんですね」声は自分でも驚くほど普通に出た。取り繕った表情も体調も意外にもばれないものだ。
「ああ、今日帰るんですけどね。ていうか、同い年でしたよね。敬語やめていいですか?」
「どうぞ。楽しかったですか? この島は」
「楽しかったよ」周りにいる他の大学生たちを見ながら言った。「それよりよ、あのオムライスと刺身の組み合わせ」
「ああ、鳴子さんの。美味しかったでしょ?」
「うまかったけどよ、最後に好奇心で一緒に食ってみたら、まずいなあ、あれ。暴力的な組み合わせだった」顔をしかめながら言った。
「僕は好きですけどね、あれ」意味のない嘘をつく。本音は共感しかないが。
「まじかよ。あの組み合わせは絶妙だったけどなあ。うるさくまずいわけじゃないんだよ、静かにまずいんだ」
「他の人にはいなかったですか? おいしいっていう人?」
「全滅だね。見事に全滅だ」なぜか勝ち誇ったような表情を向けてきた。「でも、いい思い出になったってよ」
「思い出ですか」
「ああ、こうやってみんな集まっての旅行は多分最後だろうからなあ」腰に手を置いて、ぐるっと周囲を見渡した。
「最後の旅行ですか。また行けばいいじゃないですか」
「いやー、どうだろうなあ。俺は三年だからこれから忙しくなるしな。就活って四年からだと思ってたのによ。三年の終わりごろから始まるんだよな。受験とは違くて、なんか気持ち悪いわ」
「でも、行けないなんてことはないでしょ。大げさに騒ぐことじゃない」
「そうかもなあ。でも、その後はどうだ? みんなそれぞれ社会に出たら、もう会うことはないかもしれないし、なんだかんだずっと繋がっているかもしれない」
「はい」少し何が言いたいのかわからなかった。
「あー」頭を掻きながら目を瞑った。「言ってみればそれだけのことだな。会えるかもしれないなあ」
「でしょ?」
「あ、あとそうだ。聞きたいことがあったんだけどさ」顔を寄せてきて、耳元で言った。「あの透明なカラスは何なんだ? みんな普通のカラスだって言うんだけどさ」
「あー。少し気分がいいカラスですよ」僕は笑った。
「確かにありゃあ、気分がいいな。良すぎるくらいだ」
「それにしても、残念です。あなたと出会ったのが島の外だったらなあ」
「どういうことだ?」
「いや、そういうこともあるというだけの話です。きっと気が合ったでしょうね、僕ら」
「それは少し思ってた」
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