マジカルベアは蜜を与える

春雷

第1話

 昔、可愛がっているぬいぐるみがあった。それは子熊のぬいぐるみで、小学校低学年の時にはそのぬいぐるみを一晩中抱いて眠ったものだ。私には友達がいなくて、両親も離婚寸前といった、かなり追い込まれた閉塞的な状況だったから、私はそのぬいぐるみを抱くことでしか現実を逃避できなかったのだ。つまり、そのぬいぐるみは私の心の支えだった。

 小学校四年生の時に、両親は離婚し、私は母に引き取られた。名字が変わり、転校もした。今まで住んでいた場所から遠く離れた片田舎に、私たちは引っ越した。知り合いが一切いないその場所で、母は新しい生活を始めようと思ったのだ。しかしうまくいなかった。その村は私たちを部外者と見なし、よそよそしい態度を崩さなかった。さらに悪いことに、母が離婚しているという事実が、村民の潔癖に触れ、彼女の立場をますます窮地へ追い込んだ。母は村役場で働いていたのだが、彼女は常に無視され、軽い嫌がらせをしょっちゅう受けていた。母は日に日にやつれていった。私は子どもながらに、母がとても悪い状況に置かれていることを理解した。私は怖かった。頼れるはずの母が壊れていく。私の拠り所。母がいなくなってしまえば、私の拠り所はなくなってしまう。

 どうすればいいのだろう?

 私の無知な頭では、この状況を打開する何かを見付けることはできなかった。今でも分からない。私はどうすればよかったのだろう。

 母は私に当たるようになった。窮地に追い込まれた人間は、自分よりも弱い者を攻撃することで心を落ち着けようとするのだろう。彼女は私で憂さを晴らしたのだ。攻撃は日を追うごとにエスカレートし、ある日、彼女は私が大切にしていたあのぬいぐるみを、私の手から奪った。

 こんなもの、と彼女は言って、そのぬいぐるみをびりびりと引き裂いた。

 綿が飛び散り、それでもなお、彼女は子熊をびりびりに破いた。執拗に、執拗に。

 私が受けた衝撃は、もはや言葉で言い表すことはできない。母を頼ることができなくなった今、唯一の心の拠り所は子熊のぬいぐるみだけだと考えていたところだったのだ。私の大切なものがどんどん壊れていく。私は何か罪を犯したのだろうか。前世の業でも背負っているのか? 私は深い悲しみを覚えた。絶望を知った。本当の苦しみとは、誰にも頼ることのできないこの状況のことを言うのではないか。

 孤独だった。

 村中に母が狂ったという噂が流れ、私は学校で冷遇された。狂った女の子どもだと。

 誰が母を狂わせたと思っているんだ。そっちのせいじゃないか。全部この村が悪いんじゃないか。

 私は怒り、悲しみ、そして苦しんだ。地獄だった。母が壊れ、ぬいぐるみも消え、父も消えてしまった。

 どうして……、どうして。

 どうしてこうなってしまったのだ?

 理解に苦しんだ。どうして何もかもうまくいかないのだ。世の中には幸せそうに笑っている人間が山ほどいるというのに、何故私はその人たちと同じようになれないのか。理不尽ではないか。おかしいではないか。神が彼らを選んだのなら、私は悪魔にでも選ばれたのか。

 私は世界で一番不幸な人間なのだと思った。心の底から、この不運を憎んだ。世界を恨んだ。人を憎悪した。

 私の心は、次第に病んでいった。


 それからしばらくして、私は叔父に引き取られた。父の弟である。父は新しい家庭を持っていたため、一人身の弟が私を引き取ったのだ。叔父は私に優しく接してくれて、私が欲しいものをくれた。あたたかな居場所。私は回復していった。

 それきり母には会っていない。どこかの病院に入っているという話を聞いた気がするし、親戚の家に引き取られたという話も聞く。真相は分からない。きっと分からないままの方がいいのだろう。

 私も今年で二十二だ。大学院に進み、コウモリの生態に関する研究を行っている。今の私にとっては研究がぬいぐるみなのだ。研究が今の現実逃避の手段。

 朝から晩までデータを取ったり、論文を読んだり、書いたり、ゼミ生と議論したり。かなり充実した日々を送っている。バイト先で仲良くなった男の子と、ちょっといい関係になりそうで、私の心は弾んでいた。今までの人生で一番幸福だと思った。

 そんな充実した毎日に、それは私の前に姿を現した。


 夢の中。予言があった。古い喫茶店に私はいて、テーブル席に腰かけていた。向かいに宅配業者が座って、私に言った。「ぬいぐるみをお届けしました」

 はい? と私は問い返したが、すでに宅配業者はおらず、そこで夢は終わった。

 

 あれは何だったのだろうと、夢の欠片を拾い集めながらうっすらと眼を開けた。

 私の手元に、子熊のぬいぐるみがあった。

 私は驚いて、ベッドから慌てて抜け出した。

「どうして……」

 あのぬいぐるみだ。間違いない。私が昔可愛がっていたぬいぐるみ。しかし何故。あのぬいぐるみは母が破いて捨てたはず。いやそもそも、どうして私の部屋の中にこれがあるのだ。一体誰が届けたのだ。

 私が一見してそのぬいぐるみを、昔自分が可愛がっていたぬいぐるみだと認識できたのは、ぬいぐるみの左手に縫い目があったからである。小さい頃に、私がぬいぐるみを振り回して、左手が破けてしまったのだ。優しかった頃の母は、私に子熊さんを大事にしなきゃ駄目よ、と優しく叱り、左手を縫ってくれたのだ。母とのあたたかな記憶。その証拠が、左手の縫い目だった。

 私は混乱していた。何故、どうして。頭の中を疑問が駆け巡った。そして夢を思い出した。夢。夢で宅配業者が私にぬいぐるみを届けたのか?

 やはり私は混乱している。非科学的な考えに囚われている。私は出来る限り現実的にこのことを考えようと努めた。こう考えることができる。私は酒に酔ったか何かで、一時的に記憶を失っているのだと。いつかの私が昔可愛がっていたぬいぐるみに似たものを買い、左手に縫い目をつけたのだと。裁縫が苦手な私が酔った状態で、こうも綺麗にぬいぐるみの左手を縫えるのか、また最近私は泥酔するほど酒を飲んだことがない、という疑問を別にすれば、もっともらしい。しかし、これは真実ではないだろう。現実的ではあるが、ただそれだけである。

 何かが起こっている。私の頭が狂ってしまったのか。幻覚を見ている? あるいはここは夢の中なのか。判断できない。頭が混乱してしまって、うまく物事を考えられない。

 私はベッドで横倒しになっているぬいぐるみに、そっと近づいた。

 まん丸な顔、お腹。首には赤いリボン。円らな瞳。微笑しているように見える口元。左手の縫い目……。

 私は彼を持ち上げ、抱いてみた。昔と同じ安心感があった。今、不安など何もないはずなのに、彼を抱いていると、安堵の気持ちが芽生えた。

 陽だまりにいるかのようだ……。

 何であれ、私の元に彼は帰って来たのだ。

 深く考えなくたっていいじゃないか。

 私は考えるのをやめた。

 子熊が帰って来た。

 それだけのことじゃないか。


 ぬいぐるみが帰ってきたことで、私の日常は完璧になるはずだったが、しかし、そうはならなかった。私は転落していった。再び絶望の底へ。

 ぬいぐるみが戻って来た次の日、研究室で飼っていたコウモリが伝染性の病気にかかり、全滅した。人にも感染する病で、教授とゼミ生二人が入院し、ゼミ生一人が亡くなった。私がバイト先で出会った男の子は事故に遭い、意識不明の重体。私の住んでいるアパートが火事になり、住人が焼け死んだ。私の部屋にあったものはみな燃えたが、唯一、あのぬいぐるみだけが焼けるのを免れ、私の元に帰ってきた。

 私は恐ろしくなった。このぬいぐるみが来てから、不幸が連続し、このぬいぐるみだけが火災を免れ、私の元に帰って来た。これではまるで、このぬいぐるみが不幸を運んできたみたいじゃないか。

 まさか……、本当にそうなのか?

 呪いのぬいぐるみ……?

 考えて見ると、このぬいぐるみを買ってから、両親の関係に亀裂が走り、そこからどんどん不幸が舞い込んできた。

 私のこれまでの不幸は、このぬいぐるみが原因なのか?

 そう思うと、私はこのぬいぐるみがとても恐ろしいものに感じられるのだった。

 今すぐ捨ててしまおう、と思った。私は公園のゴミ箱にそれを捨てた。

 

 家がなくなってしまったので、友達のアパートに泊ることにした。彼女は大学で知り合った他学部の子で、私と趣味が合った。たまたま学食で隣の席になり、彼女が私に話しかけてきたのだ。彼女はどちらかと言えば人見知りをする性格らしいのだが、何故かその時はすんなりと私に話しかけることができたのだという。

「多分、君とは波長が合いそうだって直感で分かったんだと思う」と彼女はいつも言っていた。

 私と彼女は、私の身に起きた不幸について語り、好きなアニメについて語った。少し気が楽になって落ち着いた。ぬいぐるみのことは彼女には黙っていた。

 そして私たちは眠った。彼女は布団で眠り、私は彼女のベッドを借りて眠った。

 

 翌日。朝起きると、私はあのぬいぐるみを抱いていた。

「うわあ!」

 私は戦慄し、そのぬいぐるみを壁に投げた。それは壁に弾んで床に落ちた。

「どうして……、どうして……。捨てたはずなのに……」

 呼吸が荒くなり、鼓動は速まった。心臓が痛み、軽い頭痛もあった。

 ベッドから抜け、彼女を探した。しかし部屋にはいなかった。布団は押し入れにしまってあった。どこへ行ったのだろう。

 部屋を出た。彼女は居ない。どこへ行ったのか。悪い予感があった。虫の知らせというには遅すぎるが、その感覚があった。あのぬいぐるみのせいだ。ぬいぐるみが私に悪い予感をもたらしたのだ。

 私はアパートの外廊下から、下を見た。ここは三階で、下には駐車場がある。

 その駐車場の真ん中に、彼女のひしゃげた死体があった。


 私は警察に事情を聞かれたが、警察は状況から自殺と判断したようだ。しかし私にはそれが真実とは思えない。あのぬいぐるみのせいだ。

 私はネットカフェに滞在した。そこで一日中ネットを眺めていた。現実から遠く離れたかった。全てが不幸に塗り替えられていく現実から。

 朝起きると、やはりぬいぐるみを抱いていた。

 私は突然、あることを思い出した。大学の知り合いの祖母が、霊媒師だという話を聞いたことがある。彼に頼んで、彼の祖母に会わせてもらおう。そしてこのぬいぐるみを除霊してもらおう。

 私は彼にメールを送った。頼みがある、と。

 

 その日の夕方、私たちはファミレスで待ち合わせた。

「やあ」

 彼は待ち合わせに二分ほど遅れてきた。スポーツ刈りで、ジャンパーを羽織っていた。

 彼はコーヒーを頼んだ。

 早速本題に入る。

「それで……、除霊はしてくれるの?」

「うん」と彼は頷いた。「お婆ちゃん、最近は除霊は行っていないらしいんだけど、特別にやってくれるんだって。これ、結構凄いことなんだよ? お婆ちゃんってかなり有名な霊媒師らしいから」

「ありがとう」私は礼を言った。

「全然。蛍野さん可愛いし」

 彼は私に住所を教えてくれた。そこに彼の祖母がいるのだ。


 翌日。十一時に指定された場所へ行った。彼の祖母の家だ。閑静な住宅街にその家はあり、かなり大きな屋敷だった。きっと霊媒師としてかなり稼いでいるのだろう。

 スーツ姿の男の人に出迎えられ、屋敷を案内された。奥の和室に、彼の祖母がいた。

 彼女は八十を超えているらしいのだが、六十代くらいに見えた。生気に満ちている。皺は深くなく、足腰もしっかりしている。長く黒い髪を後ろでくくっている。巫女装束だった。

 私はぬいぐるみを左腕に抱えながら、促されるまま、彼女の前に座った。

「それで」と彼女は口を開いた。嗄れ声だった。「近頃あなたの身の回りで不幸が起こっていると」

「ええ……」私は頷く。「ぬいぐるみが届いてからというもの、私の身の回りにいる人たちがみんな不幸に見舞われるんです……」

「それは災難じゃったな。で、そのぬいぐるみとやらは今日、ここに持ってこんかったのか?」

「え?」

 私は左腕を見た。子熊のぬいぐるみはしっかりと抱えられている。私は両手でそのぬいぐるみを持った。

「これです。ちゃんと持ってきました」

 彼女の眼が見開かれる。

「……見えん」

「見えない? そんな……、どうして?」

「ううむ。あんたの周りに憑りついておる守護霊たちは、しっかりと見えておるんじゃが……」

「そんな……」

「何やら守護霊たちが騒いでおる……。うむ?」

 彼女は、大きく開かれた眼をさらに大きくした。

「それは危険なものじゃと言っておる。守護霊たちが、それはとても危険じゃと」

「この、ぬいぐるみのことですか?」

「おそらく……。しかし儂にはそれが見えん」

 彼女は私の後ろに立っている男の人に、それが見えるかと訊いた。男は首を横に振った。

 私だけに見えるというのか。

「ううむ……。困ったのお。こんな経験は生まれて初めてじゃ……。仕方がない。見えないが、除霊を始めようかの」

「すみません。よろしくお願いします」

 と、私が言った時、彼女がうう、と呻きだした。

「大丈夫ですか?」

 彼女は苦しそうだ。何かに首を掴まれているのか、彼女は頭を上にあげ、苦しそうに首を搔いている。何かを引き離そうとしている? しかし私にはその何かは見えない。霊感が全くないのだ。

「先生!」

 男が危機を察知し、彼女に駆け寄る。その時。

 ずるるるるるっ。

 彼女の二つの眼球が、空中に引きずり出された。ぽっかり空いた二つの穴から血が流れ出す。眼球は宙に浮いたまま動かない。視神経がぶらぶら揺れている。

「先生!」

 男は叫んだ。しかし次の瞬間、男の首が百八十度曲げられ、そのままばたりと倒れた。

 先生の首も引きちぎられ、空中でぐるぐると回り出した。

 私は声も出せず、一目散に駆け出した。

 何かが、圧倒的な力を持った何かが、ここにいる。

 地獄。

 地獄を生み出す何かが……。

 

 屋敷の外に出る。私は住宅街を走り、表通りに出た。そこでは大きな道路があり、ビルが立ち並んでいる。

 ぬいぐるみは屋敷に置いて来た。はずだったが、いつのまにか私はぬいぐるみを抱えている。

「何で……、何なのよ、もう!」

 私は泣いた。悲しい? 悔しい? 何だこの気持ちは。もはや何が何だか分からない。

 どおん、という衝撃があった。何事か、と周りを見ると、ビルが傾いていた。

「ああ!」

 ビルが次々に倒れていく。ドミノ倒しのように、倒壊は連鎖していく。轟音と共に、辺りのビルは残らず倒れ、砕けた。自動車は押しつぶされ、逃げ遅れた人もいた。

 私の周りだけが無事だった。

 気が付くと、隣に宅配業者がいた。

「他人の不幸は蜜の味……、というだろう?」

 よく見ると、その宅配業者は父だった。私は直感で理解した。これは現実の父とは異なる父だ。

「僕は君に蜜をあげたかったんだ、美月。母さんは反対したがね、僕ははじめ君の名前を蜜喜にしようと思っていたんだよ、本気でね。蜜で喜ぶ」

 私は何も言わなかった。何も言えなかった。

 確かに父はゴシップが好きだった。人の不幸の話を聞いて、笑っていた。父の嫌いな部分だ。

「どうだい、色んな不幸を見られて。満足した?」

 これが映画ならば、あるいは私も満足したかもしれない。

 しかしこれは現実だ。

「このぬいぐるみは幽霊なの? 呪いなの?」

 私は訊いた。父に問いかけようという意識もなく。

「のろい、じゃない。まじない、だよ」と父……、否、そいつは言った。「君を喜ばせるマジックさ」

 私は不幸を免れて幸福か?

 そうは思えなかった。

 彼は話を続ける。

「君の父ははじめ、ちょっとした呪文をそのぬいぐるみにかけたんだ。ほんのちょっとの出来心。君を喜ばせるための魔法をかけたのさ。その魔法は―呪いと言い換えてもいいがね―次第に増幅し、多大な影響を及ぼすようになった。君の周りがどんどん不幸になったのはそのせいさ。で、ある日、君の母さんがそのぬいぐるみを切り裂いた。その魔法は入れ物を失い、実体を失くした。大気に散った魔法は自己増幅しながら、欠片を集めていった。そして君が最も幸福な時に周囲に不幸をもたらすよう、時限爆弾のように自己をプログラミングした。その結果がこれだよ」

 私は彼の話を半分しか聞いていなかった。頭が真っ白だった。

 呪い。

 魔法。

 不幸……。

 私は粉塵に塗れた視界の中、こう考えた。私が幸福であるためには、まず周囲の人間が幸福でなくてはならない。

 この呪いから逃れられないのなら……、きっと私は幸福になれない。

「君が老衰で死ぬまで、その魔法は君を保護し続けるよ。そして君の周囲を不幸にし続ける」

 と彼は言った。

 それは私にとって残酷な宣告だった。


  

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マジカルベアは蜜を与える 春雷 @syunrai3333

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