古書シャノワール

傘立て

 

 ゆっくり見ていきなよ。そう言って、でかい黒猫はのっそりと起き上がった。一冊五十円、と毛筆書きの紙が貼られた投げ売りのワゴンがゆさゆさ揺れた。

 よく言えば歴史のありそうな、正直な感想としては廃墟のような古本屋だ。今どき珍しい木枠の引き戸には波うつガラスが嵌め込まれ、その奥にいかにも古そうな書棚が見える。棚には隙間なく本が詰め込まれ、そこからはみ出したとおぼしき本は床に積み上げられ、それでもおさまりきらなかったのか、引き戸の外の軒先にまで分厚い本の山がはみ出している。店先に置かれた小さな書棚はとっくに埋まり、その前にも函入りのご立派な全集らしきものが積み上がっていて、棚の下半分を隠してしまっていた。あの隠れたところにある本を見ようとするとひと苦労だな、と思ったところで、ふたたび低い声がかかった。

「見ないのかい?」

 ワゴンの中から黒猫が訝しげな顔でこちらを見ていた。猫の訝しげな顔ってなんだろう。でも、とにかくそういう顔をしていた。

「見ます。見ます。でも、ここ、入っていいんですか?」

 慌てて返事をする。入るのをためらったのは、ガラス戸が閉まっていて、中に人の気配がなかったせいだ。

「お店の人はいないんですか?」

「俺がいるだろうが」

「えっ」

「俺が店主だよ。いいから見てきな」

「えっ、人なんですか?」

「猫だよ。お前、俺が人に見えるのか。目が悪いな。眼鏡作れよ」

「えっ」

 飲みこめずに聞き返したが、猫はもう用は済んだというように、ワゴンの中でぐるぐると丸くなってしまった。目を閉じた黒猫は、ただの毛のかたまりだった。これ以上話しかけても無駄なようだったので、しかたなく戸に手をかける。引き戸は軋みながらも意外とすんなり開いた。振り返ると、毛のかたまりから二つに分かれた尻尾がふわっと持ち上がった。なんだ、猫又だったのか。

 

 暗い店内は、外から見えた以上に本の山だった。棚におさまっているのは全体の半分ほどで、残りは壁際やちょっとした隙間にうず高く積み上げられている。まともに分類する気もないらしく、文学全集の横に医学書があり、園芸指南書とショパンのピアノ譜と海洋考古学の研究書とが隣り合っている。ぶらぶらと物色するのは楽しいが、目的があって来た人には地獄だろうなと思った。そしてなんだか、猫に関する本が多い、気がする。

 『猫語の教科書』『ノラや』『注文の多い料理店』『夏への扉』『トマシーナ』などは別々の場所に複数あるのを見たし、『長靴をはいた猫』の絵本などは版違い、言語違いであちらこちらに点在している。猫の写真集や研究書も多い。猫雑誌のバックナンバーはひとかたまりにしてビニール紐で括られている。

 店主が猫好きなのかな、さっきのワゴンも猫用にスペースをあけてあるようだったし、と考えを巡らせていると、「だから、俺が店主だって言っただろうが」と出し抜けに声がして、思わず飛び上がった。あの黒猫が、すぐそこにいた。

「まさか、心が読め……?」

「アホか。ぜんぶ声に出てんだよ、お前は。で、買うものは決まったか?」

 動揺する僕に対して、顔色ひとつ変えずに(猫の顔色ってなんだろう)、猫は話しかけてくる。二股の尻尾がふわふわ揺れる。やっぱり猫又だ。その尻尾を見ながら、ああそうか、本を買いに来たんだと思い出して、慌てて目を本の山に戻した。しかし、なんだか本の題名はいっさい頭に入ってこないし、字の洪水の中で目は滑るばかりだ。途方に暮れて、なんでもいいやと目をつぶって一冊を引き抜いた。それを猫に差し出す。

「これにします」

 手にした文庫本は『やけたトタン屋根の上の猫』だった。読んだことはないが、タイトルぐらいは知っている。

 差し出された文庫本に鼻を近づけた黒猫は、「ふうん、いいんじゃねえの。猫としては嫌な題名だけどな」とヒゲを膨らませた。

「読んだことあるの?」

「お前、バカなの? 猫が本なんか読むかよ」

 そう言って猫は本の角に顎を擦り付ける。痒いのかなと思って、掻いてやろうと手を近づけると、殴られた。爪は出ていなかったが、図体がでかいぶん力も強くて痛い。理不尽だ。

「痛いよ」

「うるせえよ。初対面なのに気やすく触るな」

「痒いのかと思って」

「お前、初対面の人間が痒がってるからっていきなり顔を触ろうとするか? 猫相手にも礼儀ってもんがある」

「わかった。ごめんなさい。で、これ買いたいんだけど、会計してくれる?」

「俺は猫だから金勘定なんかしないよ。そこにレジがあるから、勝手に自分でやってくれ」

「えっ、僕が?」

「ほかに誰がいるんだよ」

 猫が煩わしそうに、ほれ、あそこ、と店の奥を指し示す。たしかに、カウンターの上に、本に埋もれたレジらしきものが見える。

「いいの? 本当に? 勝手に触っちゃって」

「いいよ」

 猫に促され、戸惑いながらカウンターに近づいた。コンビニでバイトをしたことがあるから、操作はだいたい分かる。本の値札を確認して、レジに手を伸ばした。


「あ、お客さん? わあ、すみません、全然気づかなかった。お待たせしちゃいましたね。お決まりですか? お会計しますね!」

 突然大きな声がして、また飛びあがった。振り返ったところにいたのは、猫ではなく、人間だ。背の高い若い男が立っていた。

「裏にいると気づかないんですよね。申し訳ありませんでした。ええーっと、三百円お願いします」

 男は僕の手の本から素早く値札を読み取り、手際よく会計をする。横を向いたときに、ひとつに結ばれた長い髪が肩から滑り落ちた。猫と同じく、艶のある真っ黒な髪だ。それを見ながら、胸を撫でおろした。危なかった。あと一歩で泥棒扱いをされるところだった。猫の口車にのってはいけない。そもそも、猫でなく尻尾の割れた猫又だったではないか。あいつは暇つぶしに人間をからかって遊んでいるのだろう。

 当の黒猫は、カウンターに飛び乗って、男の長い髪にじゃれようとしている。尻尾は二股ではなく、ただの長いまっすぐな一本になっていた。こいつ、猫をかぶっている。

 ありがとうございます、また来てください、と人間と猫に見送られ、廃墟のような古本屋をあとにした。変な店だった。たぶん、来週も来るだろう。

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