第7話

 シフォニアがクルエ辺境伯爵領に来て、二ヶ月以上が経とうとしている。季節の変わり際は、儚くも美しい。淡い花々は散り、瑞々しい葉が太陽と戯れる頃になった。この地は比較的に標高が高いので、夏は王都ほど蒸し暑くならないのだと言う。

 向こう側には海岸線があるだろう山脈を眺めると、シフォニアはおぼろげに記憶を思い返す。隣国にいた二年間、夏は必ず海水浴を楽しんだ。現地で得た友人たちと共に足を波に浸しながら、結婚後にダヴロスと旅行に来たいと思ったものだ。そう手紙に書けば、それは楽しそうだとダヴロスも返してくれた。されど、今にして思えば、旅行することに賛同していたわけではなかったのだろう。一応の婚約者が口にした理想に対し、客観的な感想を述べただけ。きっと、ダヴロスに当事者意識は無かった。少し前のシフォニアが描いていた夢は、シフォニアの独り善がりでしかなかった。

「――シフォニアは、ここでしたいことはあるかい?」

 ライモントの問いに、シフォニアの意識は浮上した。その人は穏やかな微笑みを湛え、真っ直ぐにこちらを見詰めている。その眼差しがあまりに優しく、シフォニアは考えをめぐらせるふりをして目を逸らした。

 現在地は、クルエ辺境伯爵邸のガゼボ。桃色の薔薇が咲き乱れる中、シフォニアとライモントはお茶をしている。もう少し日が経てばジャッツ伯爵が所有している果樹園でブルーベリーが実るから、一緒に収穫の手伝いに行こうと話したところだ。公爵息女がやることではないが、興味があるシフォニアは快く承諾した。その提案をしたときのライモントの目が、きらきらと輝いていたというのもある。現在のシフォニアには、この地のことをもっと知ろうという気持ちが芽生えている。

 春にジャッツ伯爵邸を訪れて以来、二人は共に過ごす時間をいくらか増やした。それは義務的なものでは断じてなく、ふと思い立ったからあなたもどうだろうかというくらいの軽やかな誘いだ。

 緩やかな時間の流れはシフォニアの心を癒やし、なぜもっと早くこうしなかったのかと心地好い口惜しさを抱かせた。同時に、ライモントと過ごす時間が悪くなく、むしろ好ましいと感じていることにも気づいている。ライモントはいつも自然体で、何かを期待するとか急かすとかいったことがない。木の葉がそよ風を受けて揺れるように、そのもののあるがままを素直に受け止める性格をしているようだ。一度命を捨てようとしたシフォニアにとって、それは無意識のうちに望んでいたことだったのかもしれない。

「そうね……。私は、まだこの場所についてよく知らないけれど……ライが今誘ってくれたように、自然に触れてみたいとは思っているの、王都にいた頃は、森に入ったこともなかったから」

「なら、暑くなる前にハイキングに行こうか?近くの森に小さな湖があってね。ここの庭の雰囲気が悪くないと思ってくれているなら、そこも気に入ると思うよ」

「そうなの?ぜひ行きたいわ。海は見たことがあるけれど、湖はないの」

「僕は逆に海がないよ。どんな場所だったんだい?」

「とても広いわ。大きく息を吸い込むと、海の清々しい匂いが体中を満たすの。波は絶えずこちらに迫ってきて、足を浸すととても気持ちが良かったわ」

「それはいいね。僕も行ってみたいよ。生き物はいたかい?」

 ライモントに促され、シフォニアは思い出を夢中で語った。浅瀬にも魚がいて驚いたこと、大きな流木に腰掛けたこと、足に付いた砂を落とすのが大変だったこと。ライモントは熱心に耳を傾け、憧憬を口にし、共感した。それはやはり自然な仕草で、シフォニアを無理に楽しませようとか、以前のように気を遣っているとかでもない。

 また行きたいとは、シフォニアは言えない。第一王子を殺害しようとしたせいで、シフォニアはクルエ辺境伯爵領から出られない。それでも、思い出を話しているだけで十分に満たされる。あたかも今その場にいるかのごとく、鮮明な興奮と好奇心がもう一度生まれている。――留学をしなければ良かったという後悔は、もうほとんど消え失せている。

 話し終えた頃には、ティーポットの中は空になっていた。最後の一滴まで飲み干したところで、シフォニアはほうと息を吐く。今更ながら、ライモントは本当にこの話を聞いていて楽しかったのかという不安が湧き始めた。

 しかし、ちらと視線をやった先のライモントは、満足げな笑顔を浮かべていた。

「楽しい話をありがとう。留学して、シフォニアは貴重な経験をしたんだね」

「ええ……ええ、とても得がたい日々だったわ」

「これからは、僕が森の暮らしを教えるよ。砂の落とし方は分からないけれど、ひっつき虫の取り方なら任せて」

「まぁ、そんな虫がいるの?」

 シフォニアが無垢に驚くと、ライモントは朗らかに笑った。衣服に引っかかる葉のことだから怖がらなくていいと、かわいらしい子供を前にしたような目を向ける。シフォニアは少しだけ恥ずかしくなったが、他にも知らないことがたくさんあるのだと思うと心が弾んだ。隣国で過ごした日々と同様に、クルエ辺境伯爵領でも真新しい毎日を過ごせそうだ。そして、己の隣には優しいライモントがいる。以前までの絶望がまるで夢だったかのように、シフォニアの未来には希望が溢れている気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る