第5話
シフォニアは、気だるさと共に目を覚ました。馴染みの侍女から起床を促されるが、頭が痛いと嘘を吐いてシーツをかぶり直す。窓から差し込む日光が鬱陶しいと思うのは、そう久しいことではない。あの絶望の日に帰らされたかのような気分が嫌で、シフォニアは己の体を抱き締めた。
昨夜、ライモントはシフォニアに打ち明けた。ダヴロスとの婚約の解消は以前から決まっていたことであり、シフォニア以外はそれを認めていたとシフォニアに教えた。しかし、それはシフォニアにとって到底受け入れられるものではなかった。
はっきりと言えば、悲しかった。いつだってシフォニアの背中を押し、ダヴロスとの仲を応援してくれていた両親が、ダヴロスを引き止めてくれなかったことが辛かった。たとえシフォニアが罪を犯さずとも、両親はダヴロスとの結婚を許さなかったのだろう。ダヴロスとの婚約を喜んでくれていたと知っているだけに、シフォニアは両親の選択が裏切りのように思えてならない。婚約解消のための書類にサインをした後、肩を抱いて慰めてくれたのは、見せかけの思いやりだったのだろうか。
――私もヴィリーズ公爵夫妻も、あなたが第一王子殿下と幸福になることを夢見ておりました。ただ、そうはならなかったがゆえに。
「……いいえ……」
ライモントの言葉を思い出し、シフォニアは呟いた。――だが、本当にその通りだろうか。
シフォニアが隣国へ留学している一方で、ダヴロスは新たな恋をしていた。婚約者がいない間だけの遊びではなく、生涯を共に生きていく相手として、新たな女性を選んでいた。果たして、その過程を踏んでしまったままシフォニアとダヴロスが結婚したところで、そこに幸福は生まれただろうか。留学前と変わらぬ、仲睦まじいパートナーとして一生を歩んでいけただろうか。――答えは、問うまでもない。きっとダヴロスはあの女性のことを忘れられないし、シフォニアこそダヴロスを愛せなくなってしまっただろう。だからこそ、シフォニアはあの夜に青色のドレスを着なかったのではないか。だからこそ、ダヴロスを殺して己も死のうとしたのではないか。無意識のうちに、シフォニアはダヴロスとの幸せを諦めていたのではないか。
悶々と思考をめぐらせ、どれほどの時間が経っただろうか。再び寝室に現れた侍女は、朝食を乗せたワゴンを押していた。
「少しでも召し上がっていただきたいと、クルエ辺境伯爵がおっしゃっておりました」
「……」
無視をするのは気が引けたので、シフォニアはのっそりと体を起こした。手ぐしで髪を軽く整え、料理を覗く。並んでいるのは、どれもシフォニアの好きな食べ物だ。茹でた白アスパラガスに、きらきらと透き通ったドレッシングが掛かっている。焼き立てのロールパンからは、バターの香りが強くしていた。この屋敷での食卓にクロワッサンが出たことは、一度もない。なぜなら、シフォニアがあまり好きではないからだ。
今思えば、ライモントがシフォニアの趣味嗜好に詳しいのは、シフォニアの両親が教えたからなのだろう。そして、ライモントのほうからそれを聞きたがったはずだ。シフォニアの両親は、婚約者だからと言って娘への優遇を強要するような人柄ではない。
空腹に意識を持っていかれたシフォニアは、洗面所で顔を洗うと大人しくベッドに腰掛けた。紅茶で喉を潤してからロールパンを手に取り、千切って食べる。同時に、頭では飽きもせず昨日のことを思い出している。
――密かに慕っていたと、ライモントは言った。その真意が分からないほど、シフォニアは子供ではない。
シフォニアとダヴロスが初めて出会ったのは、十歳の頃だ。ダヴロスは見目が良く、優しく、聡明で、他の子供たちと同じようにシフォニアが恋に落ちるのも、そう難しい話ではなかった。そして、ダヴロスもシフォニアに恋をした。身分も気持ちも釣り合っていた二人が婚約するのはあっという間のことで、シフォニアはよそ見をした時期など一瞬も無かった。ずっとダヴロスだけを見ていたし、ダヴロスもそうだろうと疑っていなかった。
そのような中で、シフォニアに思いを告げる人はいないわけではなかった。振り向いてほしいと言った人もいたし、伝えたかっただけだと去っていく人もいた。しかし、どの人にも共通していることがある。――シフォニアが一切応えないと知っているからこそ、人々はシフォニアに愛情を注ぐことをしなかった。
ライモントは妙な人だと、シフォニアは思う。選んでもらえないと分かっていながら、なぜシフォニアに慈愛を与えるのだろうか。惨めな罪人に、なぜこうも優しくするのだろうか。己が捧げたものと同じ思いを返してもらえないというのは、その結末を知っているシフォニアにとってひどく恐ろしい。ライモントは、怖くないのだろうか。
腹が膨れて思考が冴えると、シフォニアは途端に申し訳無くなった。ライモントが優しいというのは、この一週間で何となく分かったことだ。では、シフォニアはどうだろうか。ここに来てしたことと言えば、部屋に引き籠もっているか、庭に足を踏み入れるか、自ら話を聞きたがったくせに逃げ出すかの三つだ。己が罪人であるとか婚約者であるとか、そういうことはこの際置いておこう。しかし人として、恩を与えられたのなら返すべきではなかろうか。同じ気持ちで応える以前に、今のシフォニアは人としての倫理に欠けてしまっているのではなかろうか。
そう気づいたシフォニアは、己の姿を改めて確認した。朝日が昇ってしばらく経つにも関わらず、未だに寝間着姿でベッドの中。健常な思考を取り戻すと共に、シフォニアの心には羞恥心が湧き起こった。何にせよ、まずは身支度からだろう。食器を下げるよう侍女に指示し、勇んだ気持ちで立ち上がった。
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