第3話

 シフォニアがクルエ辺境伯爵領に来て、一週間が経った。ヴィリーズ公爵家から馴染みの使用人を連れてきていたこともあり、今のところ生活に不便はしていない。また、クルエ辺境伯爵邸の使用人たちもシフォニアを冷遇せず、拍子抜けするほど穏やかな日々を送っている。帰国して以来、腫れ物に触るかのような扱いを受けていたのが遠い昔のことに思える。ライモントは必要以上に交流しようとしなかったが、かと言って鬱陶しがるでもなく、心地好い距離を置いてくれている。そのような環境で、シフォニアの心には徐々に余裕が生まれていった。ダヴロスのことを思い出さない時間は無いものの、涙を流す頻度は少しずつ減っていっている。

 朝食の場で、庭を歩いてもいいかとシフォニアが尋ねると、ライモントは快く許可した。その表情がぱっと明るくなったのは、この人なりにシフォニアを心配していたからかもしれない。やはりどこか子供っぽい人だと思いつつ、シフォニアは淑やかに礼を述べた。

 朝食後、屋敷の侍女に案内されて庭を訪れると、そこには花よりも木が多かった。たくましく伸びた枝が葉を茂らせ、途切れることのない日陰を作っている。見上げると、まん丸に実った果実を小鳥たちがついばんでいた。鮮やかな緑色の羽を持つ二羽だ。

「左手にいるのがアン、右手にいるのがロスと申します」

「……名前を付けているの?」

「はい、旦那様が」

 シフォニアは、アンとロスをじっと見詰めた。体の丸み、くちばしの長さ、どこを取っても二羽の間に明確な違いは見られない。つんつんと果実をつついてほじる仕草も、時折きょろきょろと辺りを見回す動きも、シフォニアの目には全く同じに映る。その後数分間、シフォニアは二羽の観察を熱心に続けたが、アンとロスの見分け方はついぞ分からないままで飛び立たれてしまった。

 動物に遭遇する度、侍女は迷いなく名前を紹介していく。あの子は青い実を食い散らかすだの、あの子は水浴びが乱暴だの、それぞれの癖や性格も交えて解説していく。なぜそれほど詳しいのかとシフォニアが問えば、散歩中のライモントに付き添っていると自然と覚えるのだと笑った。話によると、ライモントはしばしば仕事を放り投げては庭で遊んでいるらしい。ここに現れる生き物たちはペットではないので、触れたり戯れたりといったことはしない代わりに、命の営みを傍から見守るのだそうだ。お優しい方なのね、と相槌を打ったところで、シフォニアは気づく。――仮にも婚約者であるのに、その感慨は妙ではないか。婚約者であるなら、その人となりは知っているべきではないか。

 いや、考え直してみれば、初日から不思議なことだった。クルエ辺境伯爵邸に居を移して以来、シフォニアは居心地の悪さを覚えたことがただの一度もない。それどころか、あのまま実家で引き籠もっているよりも状態が改善しているとさえ言える。

 しかし、そのようなことがどうしてありえるだろうか。シフォニアとライモントは貴族学院の同級生であったものの、交流の機会は皆無だった。つまり、この春がほぼ初対面だ。それにも関わらず、部屋の調度品から食事に至るまで、シフォニアは己の苦手とするものを全く目にしなかった。むしろ、今朝の食事には好物である白アスパラガスが使われていたほどだ。シフォニアはそれを何の引っかかりも覚えずに享受していたが、思い返せば思い返すほど、この屋敷はシフォニアをあまりに歓待している。ただ配偶者欲しさにシフォニアを引き取ったにしては、心配りが過ぎるのではなかろうか。

 同時に、シフォニアはこうも思った。――どうやらライモントはシフォニアの趣味嗜好に詳しいようなのに、己はライモントについて何も知らない。

「……ライモント様は……何がお好きなの?」

 シフォニアの勇気ある問いに、侍女はきょとんと瞬いた。その振る舞いはやはり使用人らしからぬものだが、ここではそれが通常らしいとシフォニアはすでに知っている。そして、直後に見せられた柔らかい笑顔も想定の範疇だ。

「食べ物で申しますと、甘酸っぱいベリーを好んで召し上がります。夏には毎年、ご友人の果樹園で収穫をお手伝いなさるほどでございます」

「そうなのね。私もベリーは好きだわ」

「よろしければ、本日の夜にお時間をいただけるよう、旦那様に申し入れましょうか?」

 侍女の提案の意図が分からず、シフォニアは首をかしげた。すると、知りたいなら直接聞くのがいいと侍女は言った。その論には一理あると、シフォニアは理解を示す。しかし、ためらう気持ちもあった。

 シフォニアがライモントについて何も知らないのは、互いを認識して日が浅いというのもあるが、何よりも日々言葉を交わしていないことが大きな要因だ。ただでさえ一日に三回、すなわち食事のときにしか顔を合わせないにも関わらず、その最中はほとんど会話しない。険悪な空気にならずに済んでいるのは、ひとえにライモントの醸し出す雰囲気が和やかであるおかげだろう。シフォニアに話しかけずとも、給仕人に料理の感想を述べることで穏やかな食卓を実現している。尤も、そのようにライモントがたとえ一人でも楽しく食事をしそうなので、シフォニア自身が話す必要性をいっそう感じなくなってしまっているのも事実だが。

 端的に言えば、今更だとシフォニアは思う。己が恩を仇で返している自覚があるだけに、積極的に動くことができないでいる。――それに、心の傷はまだ完全には塞ぎきっていない。婚約者として深い仲を築くという至極真っ当な行為は、現在のシフォニアにとって、ひどく恐ろしいこと以外の何物でもなかった。

 十分に余白を取った後、いえ、とシフォニアは口を開いた。忙しいだろうからと当たり障りない遠慮を述べるために、侍女を見やった。

「……」

 ところが、そのときの侍女の表情はあまりに悲しげで。

「……やっぱり、お願いしようかしら……」

 シフォニアは、本心とは真逆の言葉を口にせざるを得なかった。

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