月の欠けることと満ちること
青伊藍
第1話
年若き辺境伯爵であるライモント・クルエは、眼前の光景を信じられない思いで見詰めた。
「私よりも彼女のほうがよろしいとおっしゃるのですか!?」
そう絶叫したのは、先日隣国への留学を終えて帰国した、シフォニア・ヴィリーズ公爵息女。テラスから見える空と同じ、ちりばめられた宝石できらきらと輝く紺色のドレスに身を包み、憤怒とも悲嘆とも言えぬ激情を赤裸々にさらけ出している。
シフォニアは、薔薇のように崇高で強かな気配を持っていながら、今にも消えてしまうのではないかと思わせるほど華奢な女性だ。ドーム状に結い上げられた黒髪は光が当たると紫をにじませ、その艶めきは晴れた宵の空のごとく。吊り目がちの双眸には気高さが溢れているのに、澄んだ銀のそれは早朝の雪景色のような儚さも内包している。それをよくよく知っているライモントは、らしくない、と嫌な胸騒ぎと共に一歩を踏み出した。
シフォニアと相対しているのは、その婚約者であり第一王子でもある、ダヴロス・メルティア。絹糸のごとき銀髪の下にある青色の双眸は、シフォニアを痛々しく見ている。周囲を気にする仕草をするのは、場所を移して話を始めるつもりだったからだろう。ところが、シフォニアはそこまで耐えられなかったようだ。
「ニア、落ち着くんだ。まだ私は何も言っていない」
「何も?言わなければ私が何も知らないままだと?ええ、私は何も聞いておりませんとも。貴方様も、家族も、二年ぶりに帰ってきた私に何も教えてくださりませんでした!!」
シフォニアの声はよく響く。そのせいで、会場の隅で始まった悲劇にも関わらず、今やパーティーの参加者は誰も彼もがそちらに意識を注いでいる。楽団は辛うじてワルツを奏で続けているが、踊っている人はどこにもいない。
き、とシフォニアの双眸はある女性を鋭く睨んだ。ダヴロスの隣で、まるでその恋人かのような空気をまとっている人。いや、まるで、ではない。一年前から、ダヴロスの恋人は婚約者ではなくなった。
――突然、シフォニアは右手に持っていたグラスを振りかぶった。テーブルの縁に力強く当て、パリンッ、と破片に変えてしまう。予想外の行動に、会場には緊張が走る。
「ニア?一体、何を……」
「あああぁぁぁ!!」
シフォニアは悲鳴を上げながら、きらりと光る破片をダヴロスに向かって振り上げた。ダヴロスは傍らの恋人を抱き寄せ、少し離れた場所にいた護衛たちは慌てて動き出す。
――パシンッ、とシフォニアの手首を掴んだのは、ライモントだった。
「……」
シフォニアを正面から抱き留めるようにして、ライモントは立ち塞がった。同時に頭が真っ白になり何も言葉が出なかったのは、シフォニアがあまりに小さく非力だったから。その手首は小枝のように細く、かかとが高い靴を履いているだろうにその頭は低い位置にあった。そして、その体の震えから、シフォニアの心がどれだけ傷ついているかを改めて想像した。
離して、とシフォニアは泣き喚く。あの方を殺して私も死ぬのよ、と乱暴な願いを口にする。ライモントはそれには応えず、背後のダヴロスに向けて声を発した。
「第一王子殿下、よろしいでしょうか?」
「……クルエ辺境伯だな。申せ」
「ありがとうございます。――シフォニア・ヴィリーズ公爵令嬢を、我が妻として迎え入れたく思います」
ざわ、と野次馬が騒がしくなった。一方、シフォニアは半ば放心状態にあるのか、しくしくと泣いてライモントにその身を預けたままだ。当人の了承を得ないことに背徳感を感じつつも、ライモントは言葉を繋げる。
「王族の殺害を企てる者は、いかなる事情があろうと処刑されてしまいます。ですが、二年という決して短くない日々を我が国の発展のために捧げたヴィリーズ令嬢には、この場にいる誰もが情けを掛けることでしょう」
ライモントは、ぐるりと辺りを見回した。目が合った多くの貴族子女が強く頷き返し、肯定的な声がちらほらと聞こえ始める。
今宵のパーティーは、シフォニアの帰国を祝うためのものだ。貴族学院の卒業式にぎりぎり間に合うようにして帰ってきたシフォニアを思いやり、ダヴロスをはじめとする有志の同級生が開催している。それゆえ会場は学院所有のホールであり、参加者もほとんどがシフォニアの同級生だ。――言い換えれば、ダヴロスの心変わりを間近で見てきた者ばかり。第一王子を殺害しようとしたからと言ってこの場でシフォニアが処されれば、王家への悪感情が膨張するのは明白だ。
「我がクルエ辺境伯爵領は、王都から遠く、他国に逃げようにも高山地帯に阻まれ叶いません。処刑の代わりに、この地で一生を終えることを罰として進言いたします」
「……クルエ辺境伯は、それで構わないのか?」
「ちょうど、急ぎ妻となってくれる女性を探していたところでございます。この選択が第一王子殿下のため、ひいては我が国のためとなるならば、幸いなことでございます」
「……よかろう。そなたの言、確かに陛下にお伝えしよう」
「ありがとうございます」
いつの間にか、シフォニアは嗚咽も漏らさずじっとしていた。ライモントはそっと体を離し、ガラス片を慎重に抜き取る。
シフォニアの体は、床に崩れ落ちた。ライモントは慌てて腕を伸ばし、共に膝を突く。これだけ密着していても、星のような輝きがライモントを捉えることはない。愛する人の裏切りを突きつけられ、すっかりと生きる気力を無くしてしまったようだ。
どうしようかとライモントが思案していると、シフォニアの肩にショールが掛けられた。そうしたのは、留学前のシフォニアが親しくしていた女性だ。このパーティーを企画したうちの一人でもある。悲痛な面持ちで、ライモントに強い眼差しを向けている。
「クルエ辺境伯、どうか、彼女をよろしくお願いいたします」
おかしなことだ。シフォニアは罰としてライモントに嫁がされるのであり、そこに救済の意味は無い。いや、あってはならない。――ところが、この発言を咎める者は誰一人としていなかった。一人、また一人と現れては、ライモントに頭を下げたり、シフォニアを抱き締めたりしていく。声を掛けられる度、ライモントは、必ず、としかと頷いた。シフォニアの未来を勝手に狭めたことに罪悪感を抱きながらも、決してそれから逃げてはいけないと、己の思いを改めて認めた。
ライモントは、シフォニアを横向きに抱き上げた。人々が道を空ける気配を感じる傍ら、振り返ってダヴロスに頭を下げる。頭を上げたとき、ダヴロスの口は何かを言おうとして微かに動いたが、そこから音が聞こえることはついぞなかった。
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