第4話 primary3-2

「そうなの。こんな時に来なくてもいいのにね。とりあえず、倉沢さんは出来る範囲で無理なくやってくれたらいいからね」


そう言って、遠山が慌ただしく書庫を出ていく。


時短勤務の後は保育所に子供をお迎えに行って、スーパーで買い物をして、帰宅して子供の世話をしながら夕飯の支度をする遠山のほうが、紗子の数倍忙しいはずなのに、不思議な位その背中はエネルギーに満ちている。


磯上いわく、今の彼女は独身時代の数倍逞しいらしい。


守るべきものがあると、人はどこまででも強くなれるのだ。


少し前突発的発情トランスヒートを起こしてしまったのは、嫌な記憶を思い出したせいだ。


だから今日はひたすら仕事のことだけを考えながら書庫を出た。


混雑するフロアに出るのは久しぶりで、少しだけ緊張する。


カウンターの奥に回れば、端末の前を陣取っている同僚たちが、心配そうにこちらを振り返って来た。


大丈夫ですと笑顔を返して、奥にあるカートの上に残っている児童書と図鑑の山を抱える。


宣言通り、人気書籍たちはすべて遠山が引き受けてくれたらしい。


子供が多い時間帯にカートを押して行くと、カートで遊びたがる子供がいて事故が起こっては危ないので、極力使わないようにしていた。


突発的発情トランスヒートの心配さえなければ、もっとフロア仕事を手伝うことが出来るのに。


いつも気遣いを受ける立場になってしまう紗子は、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、背の低い書架が並ぶ児童書コーナーに向かおうと、フロアから出た。


意外と力仕事が多い司書は、重たい本を運ぶことも少なくない。


絵本や図鑑は、小説に比べるとかなり嵩高くて重さも相当だ。


頑丈とは真逆を行く紗子の華奢な腕には堪える重さだが、それでもめげるわけには行かない。


ちょっと欲張りすぎたかもしれないなと後悔しながら歩いて居ると、すぐ前からスーツ姿の男性が数人歩いてきた。


白髪交じりの年嵩の男性は市議で、その隣を歩いて居るのは図書館の館長、その少し後ろを歩いて居る長身の男性は見た事が無い。


イベントホールの視察のついでに、人気の図書室にも顔を出したようだ。


慌てて壁際に避けて軽く頭を下げると、目の前で長身の男性が立ち止まった。


それと同時に腕に抱えていた重たい本が半分以上消えてなくなる。


「大丈夫ですか?」


低く滑らかな声の問いかけに、ぞくりと肌が震えた。


「あ、はい・・・すみません」


荷物の多さに見かねて手を出してくれたらしい。


紗子が両手で必死に抱えていた本を小脇に抱え直した彼が、フロアをぐるりと見回す。


途端、本を物色していた女性たちが色めき立った。


この華やかな存在感と独特の雰囲気、間違いなく彼はアルファだ。


「これはどちらに?」


「・・・・・・あ、その先の児童書コーナーに・・・」


紗子の言葉に一つ頷いて、男性が背の低い書架の前まで歩いていく。


急いで後を追えば、本に気づいた子供たちが一気に集まって来た。


「わー、図鑑だー!」


「あ、絵本もあるー!!」


「これ読みたかったやつだ!」


「み、みんな、あのね、この人は・・・」


口々に言って本に手を伸ばす子供たちに紗子の声は聞こえていない。


図書館の人ではなくて、別のお仕事で来た人だからそれ以上は、と駆け寄ろうとした矢先、目の前で男がプレイマットの上でこちらを見上げる子供たちの前に膝をついた。


持ってきた本をその上に広げてやりながら、子供たちと視線を合わせて穏やかに微笑む。


「好きな本はあるかな?喧嘩せずに仲良く読むんだよ」


きゃっきゃとはしゃぎながら届けられたばかりの本に視線を向けた子供たちが行儀よくはーい、と返事をした。


「市成くんは子供にも大人気だねぇ」


その様子を見守っていた市議と図書館長がしみじみと顔を見合わせて頷いた。


市成の名前は聞き覚えがあった。


黄月が以前話していた、西園寺メディカルセンターで大人気の独身アルファだ。


「す、すみませんでした。ありがとうございます。助かりました」


「いえ。お気になさらず」


気取った素振りも見せずに目元を和ませた彼がゆっくりと立ち上がる。


これで惹かれない女子社員はいないだろう。


「お待たせしてすみませんでした」


軽く頭を下げて市議と館長のもとに戻った市成が、再びフロアを歩き出す。


遠くから聞こえてくる三人の声を追いかけるように視線を巡らせていたら、ツンツンとスカートを引っ張られた。


「お姉さん、ご本見せてー」


「あ、ごめんなさいね!はい、どうぞー」


指摘されて慌てて残り数冊の児童書と図鑑を子供たちに向けて差し出す。


それらをぐるりと一瞥した後で、一人の少女が紗子の顔を指さした。


「お姉さん、顔赤い。お熱?」


「え?」


どちらかと言えば、顔色が悪いと言われることのほうが多いのだが。


心配になって頬に手を当てると、たしかにほんのりと熱くなっている。


「大丈夫よ、ありがとうね」


咄嗟に笑顔を取り繕って、フロアを振り返った途端、さっきの彼の声が、あの日の彼の声と綺麗に重なった。


”大丈夫ですか?”


はっきりとは思い出せないその声の持ち主は、市成だったんじゃないだろうか。


さっきのスマートな所作と、メディカルセンター勤務ということを考えれば、あの日の紗子の突発的発情トランスヒートに驚かなかったのも頷ける。


・・・・・・・・・・・・あの人が、市成さんだったらいいのに。


オメガになってから、こんな風に誰かに期待を抱いたのは初めての事だった。














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