そうげんの短篇集
そうげん
褪せ人
【ゆっくりしてこいよ。こっちはなんとかなるから】
晃からのLINEのメッセージを見た結美は、ごく自然に目を背けた。
《いい気なものね。あなたははねを伸ばせてせいせいしてるんでしょう。そりゃなんとかなるでしょう。お金もある四十代もなかばの男が、一人でなんとかならないわけがない》
結美は心の中で毒づく。
「お母さん、あたし、だし巻も食べたいな」
「そう。じゃあ作ろうか。久しぶりだもんね」キッチンで夕食の支度をする早織は、切り物の手を止めることなく答えた。
結美は母の傍らで細かくなって次第に増えていく大根の切れ端を見ていた。
「さあ、そんな突っ立っておらんで、千穂を見てやんなさい」
母の言葉に結美はため息をつく。
居間に戻りかけて振り向いた。「何も捨ててない?」
「捨ててないよ。ホコリ取りくらいはしてるけど、あんたのものは触ってないよ」
母は切った大根を鍋に入れ、袋入りの油揚げに取り掛かる。
「ほら、行きなさい。あの子が最優先でしょ」
押し出されるように結美はキッチンから出た。
リビングでは、アームチェアに腰かけた父親が焼酎の水割りを飲んでいる。
《以前からそうだったように、きっと水みたいに薄いのを飲んでるにちがいない》と結美は予想した。
《たしかに実家には変わらないものがある。変わらないもの。変えたくないもの。たしかにこれからもずっとあり続けるように思えるもの。父も母もずっと生きていてくれるように思える。――それに、あの人だって》
結美はいたたまれなくなった。授乳期の赤子の面倒を見る身でありながら夫のことよりも先にあの人のことを考える自分に。
結美が年の離れた夫を選んだのは、もういい歳だし相手を見つけないととなかば追い詰められた果ての結末だった。誰でも良かった。ある程度ましなら細部は問わない。夫の晃とは八歳の年の差だ。三十台なかばの彼女が子供を得るには、いよいよ猶予がなかった。
《ちょっとくらい頑固でもかまわない。自信家過ぎるところは、男の人ならだいたいそうだと諦めておこう。込み入った話を聞こうとしないのも初めから期待しなければ落胆もなくなる。こちらが諦めればそれで丸く収まる》結美は以前の、ただ一人の男を思いだしたことの罪悪感を消し去ろうと、ムリからいまの夫のことで頭をいっぱいにしようとした。
三カ月の千穂は寝息を立てている。起きる気配はなかった。
「父さん、ちょっと部屋に行ってくるね。この子、見ていて」
「ああ」
父の芳次はスルメをつまんだ手をとめて生返事を返す。
結美は一段一段の高さまで身に沁みついている階段を見上げた。
妊娠中に増えた体重もある、体力が落ちていることもある。
体にかかる負荷を感じながら、結美はゆっくりと階段を昇って行った。
2階の廊下を進み、大学進学直前まで過ごしていた自身の部屋のドアをあける。
かつて彼女の居場所だった。どこに何があるのか、隅々まで把握している。
記憶をもとにベッド脇のカラーボックスの下部に差しはさまれている厚手の冊子類に目を走らせる。
『平成一七年度 ○○県立○○高等学校 卒業アルバム』
卒業してから二度と開くことのなかった冊子。
結美は近寄って腰をかがめ、時代のついたアルバムを引き出した。ベッドに腰かけ、箱からアルバムを抜き取って巻末のページを開く。そこにあるはずだった。
【また逢おう きっと 直矢】
おおきく伸びやかな字が記してある。
結美はその雄渾な筆致から目を離すことができなかった。
《あのころのわたしはバカだった》結美はいまにも泣き出しそうな表情になる。
《直矢も自信家だった。生きることに前向きだった。ずっと野球に打ち込んできたのに、三年の夏休みが終わると突然、海洋生物――とくにサメの生態について研究したいといってそちらの道への進学を希望した。なぜサメ、と尋ねたけれど、子供の頃に見たドキュメント番組の影響で、とだけいってそれ以上語ろうとしなかった。相手との間に壁を感じるとその先へは踏み込めない。それぞれの大学へ進学してからもこまめに連絡をとってさえいれば、望まない夫との結婚なんて末路にはならなかった。あの頃の思い出を佳い印象のままにそっくり保管しておけると思っていたのがかつての自分だった》
――私たちは離れた。
アルバムの上に書かれた字を結美はひと差し指の腹でそっと撫でた。
――逢いたい。
階下から聞こえてくる赤子の泣き声を耳にすると、結美は心が冷めていくのを感じた。
アルバムから指を離す。
《――思い出はあのころのまま、永遠に心に留まると思ってたのにな。わたしはこんな生き方、望んでない。これがお似合いなのか》
胸の張りを感じた結美は視線を落とし、慌ただしくアルバムをベッドに置いて立ち上がった。
了
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