船出
音崎 琳
船出
いつの間にか文字が追いづらくなっていることに気づいて、ぱちんと手許の読書灯を点けた。店の照明も点けなくてはと顔を上げたところで、硝子戸の向こうからじっとこちらを見つめている少女の姿が目に入った。
立ち上がって店内の灯りを増やし、看板の照明も点けようと硝子戸を開ける。ぶつからないよう慌てて飛びのいた少女に、いらっしゃいませ、と声をかけると、少女は緊張した面持ちで会釈して、店の敷居をまたいだ。膝下までの紺のスカートと、襟許には海の色のりぼん。この近くの学校の制服だ。胸の前で、黒い筒を握りしめている。
勘定台の奥の椅子に腰を下ろす。少女が買いたい本は決まっていたようだった。積み上がった古本の塚を迂回して、すぐに一冊の本を携えてくる。背は退色しているが、表紙は鮮やかな青色を保っていた。
受け取った本の裏表紙をめくって書きこんだ値段を確認し、少女に告げる。少女は筒を脇に挟んで鞄をひっかきまわすと、財布を探し当て、安くはないその金額をぴったり出した。
普段なら、なじみのない客にわざわざ話しかけたりしない。だが、少女の制服と、抱えた筒と、売った本の青に、懐かしさが勝ってしまった。
「今でも、いちばん青い場所がどうのって言われてるの?」
少女の目がまんまるにみひらかれる。
「あの……はい。……『いちばん青い場所』に制服のりぼんを結びつけると、幸せが訪れる、って」
少女が――そして、かつてわたしも通っていた学校の言い伝えだった。
「わたしがいた頃は、卒業する先輩に後輩が青い花を渡していたんだけど」
仲の良かった下級生が贈ってくれる青い花に、卒業生は自分のりぼんを結ぶのだ。
「今も、そうです」
少女は筒と、今しがた買った本を抱きしめる。青い花は見あたらない。
「でも、わたしは、この本があるので」
少女の口許がほころぶ。そのまなざしは晴れやかだった。
「この本にりぼんを結びます」
船出 音崎 琳 @otosakilin
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