第92話「決戦の覚悟」
帝国軍との戦闘を終えたハルトは、接収したカノンの街の治安回復に追われていた。
本来ならば、カノンの領主であるミンチ伯爵がやるべき仕事だと思うのだが、「南方軍を立て直す」とか言い出してどこかに消えてしまったので仕方がない。
そこは、エリーゼはもともとこの街の防衛を任されていた程であるし、領地を実質的に経営している官僚たちも戻ってきていたのでなんとかなった。
意外と後始末に時間がかかってしまったが、帝国軍が再侵攻してくる可能性も考えるとここで手を抜く訳にはいかない。
「ハルト様。街の治安も落ち着きましたし、軍団の物資の補給も問題ないようです」
「やれやれ、ようやく一息付けますね」
ミンチ伯爵の屋敷に落ち着いた二人。
この部屋は、ハルトが書記官として赴任していたときに使っていたものだ。
奇しくも、こうしてエリーゼと最初に出会った場所に戻ってきてしまったわけだ。
そう考えると感慨深くもあるなとソファーに座って軍服の襟を緩めたハルトの前に、エリーゼがガバっと跪く。
「ハルト様。先の戦いでは、ご命令通りにシュタイナーを討ち取れず申し訳ありませんでした!」
「ずっと暗い顔をしているから何かと思えば、そんなことを気にしていたんですか。エリーゼ、貴方は私の命令を守ったではありませんか」
「いえ、不甲斐ない私はハルト様のご命令通りにできず……」
「エリーゼ。私の隣に座りなさい」
エリーゼは負い目を感じているようだが、ハルトに女を跪かせて喜ぶ趣味はない。
「は、はい」
エリーゼは、命じられるままハルトの隣に座る。
「確かに最大の目標であるシュタイナーは討ち取れませんでした。ですが、こうしてみんな無事に生き残れたじゃないですか」
「でも、シルフィーと二人がかりで戦ったのに、それでも私は勝てませんでした」
「悔しい気持ちはわかります。でも私は、貴方に命を大事にせよと命じたはずです。たとえシュタイナーを討ち取れていても、貴方を失っていたらまったく割に合わないですよ」
「ハルト様……」
「何度でも言います。最優先は貴方の命ですよ。その一番大事な命令をきちんと守れたのだから、胸を張ってください」
「ありがとう、ございます」
俯いたエリーゼは、こらえきれずに琥珀色の瞳から涙を流した。
ハルトはそっとハンカチを差し出して言う。
「それに、敵の最精鋭部隊である黒竜騎士団に大打撃を与えたのは十分な戦果と言っていいでしょう。シュタイナーはそうですね、二人がかりで駄目なら三人でも四人でも、みんなで協力して倒せばいいんですよ」
ハルトは、震えるエリーゼの肩をさすって落ち着かせてやる。
もたれかかったエリーゼはぽつりという。
「再戦の機会はあるでしょうか」
「きっとあるでしょう。でもあんな戦闘が何度もあっても困ります。これでしばらく帝国の侵攻が止まればありがたいですが……」
ハルトがそう言いかけた途端に、バタンと扉を開いてシルフィーが飛び込んできた。
「ハルト様、大変です!」
「なんですかシルフィー。せっかく良いところだったのに!」
さっきまで弱々しく震えて泣いていた弱々しいエリーゼが、急に立ち上がって怒るので、ハルトは「えっ?」っと思う。
「いや、エリーゼさん。今はそれどころじゃないんですって!」
「空気読んでください!」
「えっと、シルフィー。何事ですか?」
「帝国の大軍勢が襲来して、ノルト大要塞が陥落したそうです。ルクレティア殿下と、クレイ准将がここまでいらっしゃってます!」
やれやれ帝国軍は休ませてくれないなと、ハルトは渋々重い腰を上げた。
※※※
屋敷の表まで出てきたハルトたちに、やってきたクレイ准将は慌てた様子で説明した。
「ハルト殿、大変です」
「大変はもう聞いたんですが」
もう正直、大変は聞き飽きたハルトである。
「帝国軍はノルト大要塞で止まらず、一部の兵を残して王都に向かってさらに進軍を続けています」
「なるほど、そうですか……」
驚くべき報告であった。
帝国軍は、伸るか反るかの大博打に出たのだ。
すでに事態は一刻の猶予もない。それでもハルトは、押し黙り腕を組んで考えている。
「帝国軍が大侵攻を仕掛けてきたんですよ。驚かれないのですか?」
こんな報告を聞いても冷静なハルトに、クレイ准将の方が驚いてしまう。
「シュタイナー将軍が、そう言ってたのですよ。ヴィクトル皇帝は、今回の戦いを最後の決戦にするつもりだと」
その時はまさかとは思ったが、こうなってしまえばハルトもその言葉を信じるしか無いわけだ。
すでに帝国軍は、引き返せないラインを超えてしまっている。
「ハルト殿。そのシュタイナー将軍による南方の侵略は陽動作戦でした。そして、その隙にヴィクトル皇帝率いる帝国本軍がノルト大要塞を攻略する。ここまでは、ハルト殿の予想通りですな」
「そのとおりですね」
「しかし、帝国軍が危険を冒して一気に大侵攻を仕掛けてきたのは、いかに神算鬼謀のハルト殿といえども予想外ではありませんか」
「裏をかかれたという思いはありますね」
そう言って笑うハルトに、クレイ准将は少し落ち着きを取り戻す。
「取り乱してしまって申し訳ありません。私としてはもうどうしていいのやらわからなくなったのです。これまで、この老いた頭を必死に働かせて、帝国の意図を考え続けてきました。しかし、ノルトラインを超えてそのまま王国側に攻め込んでくる帝国軍を見て、私はもう敵が何を考えているか理解できなくなりました」
「気持ちはわかりますよ准将。神算鬼謀なんておだてられても、私だって全てを理解しているわけではないんですから」
ただ焦りはしないのは、これもハルトの想定した範囲内ではあったということだ。
ハルトがもっともして欲しくなかったことを、よくぞしてくれたなという思いはあるが。
「もう私には先が読めません。確かに王国にとっては王手をかけられた形ですが、下手をすれば帝国軍だって軍師ワルカスが行った帝都侵攻と同じように袋のネズミとなるではないですか!」
それにもハルトは頷くしか無い。
ハルトにすら、ヴィクトル皇帝が決戦を焦る理由がわからない。
帝国軍は、王国が内乱している間に万全の構えを敷き、圧倒的な兵力を手に入れた。
じっくりと構えて戦えばいいものを、突然の二方面攻撃を行い、今度は王国奥深くの王都を襲撃するような無茶な遠征を仕掛けてきた。
勝って大陸の覇権を握るか、それとも遠征で破れて潰えるか。
伸るか反るか、まるで博打のような作戦だ。なんでこんな危険を冒す必要があるのか。
これが年老いて余命幾ばくもない皇帝であれば、生きている間にと勝ちを焦るのはまだ分かる。
だが、ヴィクトル皇帝は、まだ十四歳。大人にすらなっていない。
これから、長い治世が約束されているというのに何故ここまで勝負を焦らなければならないのか。
「ともかくも、これでまた王国が危急存亡の事態に陥ったのは確かですね」
「ご報告が遅れましたが、帝国軍は総数で二十万の規模と思われます。ハルト殿の言っていた国民皆兵制を行ったと判断して、ご指示どおりにドルトム殿にアリキア辺境伯領でも国民皆兵により防衛を行うよう伝えておきました」
それにもハルトはわからない思いがあるのだ。
国民皆兵制を取れば、圧倒的な兵数を揃えることができて戦には勝てる。
だが、民衆に銃を与えることは封建制の崩壊につながる。
そうなれば、いずれは王政や帝政も成り立たなくなる。
あの聡明なる少年皇帝が、それをわからないはずがない。
それなのになぜ、これほどまでに彼は勝利を焦るのか。
この謎だけは、直接本人に聞いてみないことにはわからないだろう。
「クレイ准将、ありがとうございます。ともかくこれで、アリキアは守れますね」
ハルトが百年過ごすための領地は守られたと言っていいだろう。
「帝国軍の動きは今もつぶさに調査させておりますが、おそらくアリキアは無事でしょう。事ここに至っては、敵も一挙に王都に攻め入るしか道はない」
「せめて王都の途上にある貴族軍が、足止めをしてくれれば助かるのですが」
そう言うハルトに、クレイ准将は苦渋の顔をした。
「ハルト殿も、それは望み薄だとわかっておられるでしょう。残念ながら、王国の腐敗した大貴族は王への忠誠が厚いとはお世辞にもいえません。領土の安堵を交換条件に裏切ってもおかしくはありませんよ」
「それはどうでしょうねえ」
ヴィクトル皇帝は、あれで清廉なところがある。
改革を求めたかつてのラスタンのようなクーデター軍であればまだしも、腐敗した無能貴族と結びつくとは考えにくい。
だが、どちらにしろ大貴族が当てにならないということに否やはない。
「謀将の立場として言わせていただければ、私がヴィクトル皇帝なら必ず裏切るように仕向けます。帝国にも有能な謀将はおりましょう。あの内乱も、裏には帝国の策謀がありました。王国の大貴族との交渉ルートは当然あるでしょう」
「どちらにしろ貴族軍には期待できないってことですね。面倒なことですね」
結局は自分がやらねばならないのかと、本当にただただ面倒そうにハルトはつぶやく。
「ただ面倒なだけですか? ハルト殿、敵の総数は二十万です。ハルト殿の軍団と我々を合わせても、たった三万。これで、王都の危機を救えましょうや?」
そこで、珍しく二人の話を黙ってじっと聞いていたルクレティアが声を上げる。
「ハルトには必勝の策があるってことよね!」
その声には一点の曇りもない。
呆れるほどに、本当に心からハルトが勝利するとそう信じ切っている。
「ものすごく面倒ですが、私がなんとかするしかないんでしょうね」
これはもう諦めに近いものだ。
ハルトは、この姫様に言われたら戦うしかない。
そして、どうせ戦うなら勝つために全力を尽くすしかない。
この姫様の軍師となってしまった時に、ハルトのめぐり合わせは決まってしまったに違いない。
「お願いハルト、帝国軍をやっつけて王都のお父様を救って!」
気楽に言ってくれるなあと笑いながら、ハルトはクレイ准将に言う。
「それでは、クレイ准将。一万の兵を分けますので、それでノルト大要塞を落としてきてくれますか」
「それは構いませんが、数少ない兵から更に分けるのですか?」
「ノルトラインを閉じることがどうしても必要なんですよ」
「王国領内に入り込んだヴィクトル皇帝を袋のネズミにするということですな!」
「いや、それが主目的ではありません。これが王国と帝国の命運を決する最後の決戦であれば、あの『帝国の剣』シュタイナー将軍は必ずや援軍として駆けつけるでしょう」
「帝国領をぐるっと迂回して、ノルトラインから増援に駆けつけるというのですか。それは距離的に無理があるのでは」
帝国軍は未曾有の規模の二十万を派兵してきたのだ。
更にこれから増援があるなどと、考えたくもないことだった。
「いや、あの男なら最後の一騎となっても駆けて来るでしょう。できる限りで結構ですから、クレイ准将はシュタイナー将軍の増援を喰い止めていただきたい」
「最後の決戦と言いましたな。ならばその役目、身命を賭して引き受けましょう」
覚悟を固めたクレイ准将の表情を見て、少し不吉なものを感じたハルトは言葉を続ける。
「クレイ准将、身命を賭してはよしてくださいよ。貴方は戦後にも必要な人材ですから、必ず生き残ってください」
「ハハッ、この老骨にそう言ってくださいますか。ハルト殿は、やはりお優しい御方ですな。必ずや良き君主にもなられましょう」
クレイ准将は、眩しそうに目を細めてルクレティアとハルトを見る。
「私もハルトと一緒にいくわ!」
「いや、姫様はクレイ准将と共にノルト大要塞に行ってくださいよ」
帝国軍の目的は、王都のラウール王を倒して王国を瓦解させることだろう。
万一のことを考えれば、ルティアーナ王国の最後の後継であるルクレティアはより安全なノルト大要塞のほうに回るほうが合理的というものだ。
「だってハルト、最後の決戦なんでしょう。私も一緒に行かせてよ」
「困りましたね」
ハルトが目を向けると、クレイ准将は好きにさせてくださいというように肩をすくめた。
「エリーゼはどう思います?」
「え、私ですか」
こう言う時に意見を聞かれるとは思ってなかったので、エリーゼは少し当惑する。
「ええ、エリーゼの意見も聞いておきたいので」
「では、ご提案します。姫様も一緒に連れて行ってあげてはいかがでしょうか」
「意外ですね」
いつも副官として合理的な判断をするエリーゼがそう言うとは思わなかった。
「私も女ですので、姫様の気持ちはわかります」
そう言われてもハルトにはさっぱりなのだが、しかし困ったことにハルトもルクレティアにいてほしいという思いがある。
姫様がいてこそ、みんながこの戦いを生き延びられる。
そんな気がする。
まったく、自分でも合理的とはとても言えないなと苦笑するしかない。
「じゃあ、姫様にも来てもらいましょうか」
「やったわ!」
こうして話はまとまった。
「じゃあ、皆さん命を大事にして、そして戦うからにはきちっと勝ちましょう!」
これが、決戦に臨むハルトの覚悟だ。
クレイ准将は言う。
「しかしハルト殿、現実的に考えて二十万に対して二万はあまりにも少ない。増援を得る手立てを考えてはいかがでしょうか」
「それも道すがら相談しますが、すでに増援ならこちらにもありますよ」
ハルトがそう言うと、高らかに馬蹄の音を響かせながらミンチ伯爵が騎士隊を引き連れて屋敷の前まで駆け込んできた。
「軍師ハルト! 久しぶりだな!」
「はい、お久しぶりですねミンチ伯爵」
「よくわからんが、また戦が始まるのだろう。ならばこのミンチ、再編した南方軍を率いて援軍つかまつる!」
実際再編したのは大見得を切っているミンチ伯爵ではなく、後に続いてやってきた一様に疲れ切り青い顔をしている参謀たちであろう。
まったくお互いに、仕える君主が脳天気だと苦労するなと参謀には同情してしまう。
まあミンチ伯爵がこうくるのはわかっていた。
ここは、南方での敗戦を少しでも挽回しないとまた将軍を解任される危機なのだ。
それは、どんな無理を押しても絶対に参戦すると言うに決まってる。
苦労しているミンチ伯爵の部下には悪いが、王国南方軍の増援はハルトにとってもありがたい。
「もちろんミンチ伯爵の軍にも働いてもらいますよ」
「望むところ! 我らが手を組めば、勝利間違いなしよ!」
本当にミンチ伯爵は戦況というものをまったく考えなくて、笑うしかない。
だからこその使いみちというものもあるものだ。
「じゃ、話もまとまったようなので、さっさと行ってちゃちゃっと片付けてしまいましょうか」
まるでちょっとそこらに出かけるという調子で、ハルトは軍勢を率いて決戦の地へと赴く。
ついに王国軍の反撃が始まったのだった。
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