窓際の天才軍師 ~左遷先で楽しようとしたら救国の英雄に祭り上げられました~

風来山

第一章「カノンの英雄」

第1話「迫った五千の軍勢と少女騎士の願い」

 コンコンと、ハルトの部屋のドアがノックされる。


「うーん……」


 面倒くさいので放っておくと、ノックの音はコンコンからドンドンに移行する。

 しかたなく扉を開けると、栗毛色の髪の少女が飛び込んできた。


「火急の用件ゆえ、失礼します。こちら、ハルト書記官殿の執務室でよろしいでしょうか!」

「そうですけど?」


 今日も、窓際のソファーでゆっくり読書をしながら、いつの間にかうたた寝していたハルトの黒髪はボサボサである。

 少女は、碧い瞳をパチパチさせた。


 おそらくこの冴えない顔立ちの男が、本当に王国から派遣された書記官かと疑っているのだろう。

 初対面の相手には、お馴染みの反応なので、ハルトは肩をすくめるだけだ。


 書記官の狭い執務室は、書きかけの書類やら、脱ぎ散らかした衣服やらで雑然としている。

 しかし、ハルトの着ている服はヨレヨレではあるが、ルティアーナ王国の正式な官僚のものだ。


「失礼しました、書記官殿。このカノンの街の防衛隊長を務めさせていただいております。従騎士のエリーゼ・マルファッティと申します」

「これは、若い隊長さんですね」


 物々しい甲冑に身を包んだ少女は、まだ幼さの残る顔立ちである。

 平民出身のハルトと違い、家名があるので貴族の部類だ。


 士爵家を継いだばかりの騎士見習いかなとハルトは思った。

 若すぎて少々力不足に思えるが、准貴族の娘なのだから街の防衛隊長を務めるのも、そうおかしなことではない。


「書記官殿は何をなさっておいでだったのですか?」

「本を読んでいたんですが、ちょっと眠たくなったので恥ずかしながらうとうとしてたところですよ」


 そう聞いて、エリーゼはますます眼を丸くした。


「書記官殿、聞いておられないのですか! カノンの街のご領主、ミンチ伯爵の軍がバルバス帝国の逆襲を受けて壊滅、敗走し、このカノンの街に帝国兵が迫ってきているのです。街まで逃げてきた兵の報告では、その数五千だそうです!」

「そうらしいですね」


「その上、この街を守る兵士は、隊長である私と三十人しかいないんです」

「大変ですねえ」


「ご存知ならば、昼寝などしている場合ではないじゃないですか! この街に残酷非道な帝国軍が向かってきてるのですよ。このまま街が敵の手に落ちれば、行われるのは略奪と虐殺です! 書記官殿とて、他人事じゃありませんよ!」

「はぁ……」


 寝ぼけ眼のハルトは、思わずあくびを漏らす。

 正直なところ他人事ひとごとだ。


 ハルトは軍人じゃないし、国から派遣された書記官だからといって、絶望的な防戦に付き合う理由はまったくない。

 文官の業務は戦争ではないので、敵が来る前に逃げるだけである。


「この街には、留守居役の私と三十人の兵士しか残っていないんです。このままじゃ、この街は壊滅します。どうすればいいんですか!」

「帝国軍が来る前に逃げるしかありませんね」


 今ちょうど、荷物をまとめていたところでもあった。

 街へ帝国軍が突入した後、略奪や落ち武者狩りが始まるだろうから、逃げるのはタイミングが大事だ。


 どうせ住民も散り散りに逃げるだろうから。

 それに紛れて街を出れば、あとはなんとでも逃げられる。


 いざとなれば奥の手もいくつか用意してあるハルトは、五千人の帝国軍が迫っていても余裕であった。


「逃げるしかない、そうですよね! もちろんそうするつもりなんですが、私には市民一万人を守る責任があります。なんとか、街のみんなを安全なところまで避難させたいんです」

「そうですか。じゃあ頑張ってください、隊長さん」


 一歩踏み出したエリーゼは、ハルトにすがりつこうとしてスルッとかわされてしまった。

 前のめりにつんのめって転けそうになるのを、何とかこらえた。


「待ってください。話は終わってません。書記官殿は、王都の王立学院を卒業されたエリートだそうですよね!」

「はあ、まあ……。一応はそういうことになってるそうですが、ただの文官ですし、こんな地方に飛ばされてくるぐらいですから期待されても困りますよ」


「そんなぁ、助けてくださいよ。ルティアーナ王国最高学府のエリートなら、軍略も修めていらっしゃいますよね。私は騎士になったばかりで、何の戦闘経験もないんです。どうかこのとおりです、知恵を貸してください!」

「嫌ですよ」


 仮にも士爵、先祖代々から王国に仕える誇り高き騎士の娘が、恥を忍んで地べたに這いつくばって頼んでいるのに、この男は秒速で断った。

 取り付く島もないハルトだが、エリーゼは諦めなかった。


 残虐極まりない帝国軍がいまにも街に攻めこんでくるかという状況で、のんびり昼寝している男なのだ。

 むしろ、この人はなにか違う。この人には、何かあると感じていた。


 少女の直感だ。

 この人を逃してはならない。


 エリーゼは、十五歳の若さで騎士であった父を亡くし、天涯孤独の身。

 マルファッティ家を継いだ途端に、この絶望的な状況でとんでもない責任を負わされてしまった彼女には、どのみち他にすがるものなどなかった。


「もともと私に隊長なんて向いてなかったんです。一生のお願いだから助けてください!」

「だから、嫌ですって……」


 そう後ずさるハルトの腰を、じりじりとにじり寄ったエリーゼは掴んだ。

 逃がすものか。


 この手を放したら自分は死ぬという勢いで、すがりついて放さない。


「助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、助けてください、お願いだから助けて助けて! 助けてぇぇええ!!」

「うわあああ」


 怖いよ!

 一度食らいついたら離さない、まるでスッポンだ。


 この子、見かけより力あるなとハルトは驚いた。

 見習いとはいえ、騎士だけのことはある。


 普段は凛とした騎士の少女が、わんわん泣き叫びながら無残にも鼻水まで垂らして、助けて助けてとすがりついてくるのだ。

 これはもう、ハルトが「はい」と言わないと、エリーゼが離れない強制イベントに突入している。


 面倒なことになったと、ハルトは溜息をついた。


「三十人の兵卒と、一万人の市民の命がかかってるんです。私ではもう無理です。もうあなたしか頼れる人がいないんです。私にできることならなんでもします。女神ミリス様に誓ってなんでもします! だからどうか助けてください!」

「はぁ……わかった。わかりましたから、手を放してください」


 一張羅に鼻水を付けるのはやめてくれ。


「本当ですか!」

「敵を追い返したり街を守ったりじゃなくて、市民を無事に逃せばいいだけなんでしょう。それならまあ、なんとかできますよ」


「本当になんとかなるんですか! ……で、では、この街の兵権をお預けします。ハルト様は文官とおっしゃいましたが、王国より派遣された書記官の方が、地方の領地で軍師になられることは前例がありますから」


 はいどうぞと、兵権の証である伯爵家の紋章が付いた指揮棒を渡されてしまう。

 これでもう逃げられない。


「しょうがないですね」

「その代わり、私ができることはなんでも致します。もとよりこの命は捨てる覚悟でした。これより私は、ハルト様の従者として身命をとして誠心誠意尽くします。なんでもおっしゃってください!」


 うら若き女の子が、なんでもしますとか男にいうべきじゃないとハルトは思ったが。

 街の住民を逃がすとなった以上、時間が貴重になってくる。


 今はそんなことを言っている場合でもない。

 協力するというなら、してもらおうじゃないか。


 ハルトの優秀な頭脳は、すでに住民を連れて街を脱出する策を練り始めていた。

 そのために、エリーゼには頼みたいことがいくつかある。


「では、まず見栄えのいい軍服を用意してもらえますか。官服のままではハッタリが利かないでしょう。なるべく軍人の高位高官に見えるような」

「衣装でしたらこちらです。他にも、騎士の甲冑などもございますが?」


 エリーゼに領主の館の衣装室に案内されて、服を物色する。


「重いのはいらないです。その革のブーツは動きやすそうでいいですね。いただきましょう」


 普段から運動を怠けている文官を舐めてもらっては困る。

 鎧など着たら、身動き取れなくなる。


 ハルトは館に残されていた黒羅紗の軍服に身を通して、仰々しい肩当の付いた外套マントを羽織る。

 寝ぐせの付いた髪がなんとかならないかなと手で押さえていると、エリーゼがどこからか櫛を調達してきて整えてくれた。


「よくお似合いですハルト様!」

「まあ、馬子にも衣装と言ったところですか。これから、私のことはミンチ伯爵の軍師と呼んでください。街の脱出を指揮する密命をあらかじめ帯びていたという立場です。正式な辞令はありませんが、臨時とはいえこうして軍権を握っているのですからそれぐらいは言ってもいいでしょう」


 ハルトは指揮棒を持って、自信ありげに微笑む。

 おそらく、それぐらいは言わないと収まりがつかない。


「わかりました。ミンチ伯爵より密命を帯び、全権を任された軍師ハルト閣下ですね」

「そういう理解でいいですよ。では、従騎士エリーゼさん。撤退戦のために住民に協力を求めに行きます。主だった街の代表者はいますか?」


「それでしたら、すでにこの館の広間に集まっております。市民は不安がって、この領主の館に押しかけてきてますから、正直なところもう暴動寸前なんです……」

「ハハ、それは重畳。好都合です。だから、そんな心配そうな顔をしないでください。そんな顔だと上手くいくものもいきませんよ」


 敵軍が迫っていて守る兵士がいないのだから、帝国軍の略奪と殺戮を恐れる住民が恐慌状態に陥っても無理はない。

 それも想定の範囲内だ。


「私は、そんなに不安げな顔ですか?」

「そうですね。そんな堅い表情では、可愛らしい顔が台無しですよ。これは命令です、エリーゼさんはもっと笑っていてください」


 若くて頼りなさそうなよそ者であるハルトに権威付けしてくれるのは、この街の累代騎士の血筋を持つエリーゼだけなのだ。

 せめて緊張を解そうと、ハルトは慣れない冗談まで言った。


「了解しました、軍師ハルト様!」


 涙を拭いて笑顔になるエリーゼ。


「いい表情になりましたね。その笑顔を忘れないように」


 エリーゼは、少し朱に染まった頬を手でさすると「はい、ハルト様!」ともう一度元気よく返事をして、広間に案内した。


「さーて、一発ハッタリでもかましてみるかな……」


 そう呟きながら手をすりあわせて気合を入れたハルトは、少女騎士に導かれて街の代表者が押しかけて騒々しくなっている広間へと足を踏み入れた。

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