壁にシミあり

そうざ

壁にシミあり

「これは間違いなく自縛霊ですな」

 七五三のような恰好の厚化粧の女霊媒師が重々しく呟いた。

 私は、居間の白い壁に浮かんだどす黒いシミを遠巻きに見詰めながら、霊媒師の顔色を窺う事しか出来なかった。


              ◇


 娘が中学に上がるのを機に手狭な借家を引き払い、三十年ローンを組んで郊外の分譲住宅を手に入れた。通勤時間はこれまでの二倍になったが、全ては家族の為だと思い切った。

 結婚して十余年、世間並みに夫婦関係は冷めている。そこへ持って来て娘は思春期の扉を開いてしまったから、家庭内はすっかり二対一の力関係を呈している。

 シミが現れたのは、そんな新居で生活を始めて間もなくだった。

 かびの仕業のようだったが、どんな洗剤で拭き取ってみてもその翌日には同じものが浮き上がる。何度拭き取っても元に戻り、寧ろ日に日に大きくなるのだった。

「業者に連絡して壁を直して貰わなきゃ駄目だなぁ」

「何言ってんの、余計なお金が掛かるじゃない。あんたが自分で貼り直しなさいよ」

 安月給の癖に、と言わんばかりの鶴の一声で、やった事のないDIYをやる羽目になった。

 一口に白い壁紙クロスと言っても種類が豊富で参った。フラット、布目調、石目調、塗り壁調――ネット上のサンプル写真だけでは、どのメーカーのどの商品がうちの壁紙と同じなのかが判らない。実店舗にも足を運んでサンプルを貰ったが、どれも微妙に違う。

 中途半端な貼り替えで妻が納得する筈がない。壁一面、丸々貼り替えるのが無難だ。出費は痛いが、業者に頼むよりは安く済む。

 私は休日返上で、何度も妻に駄目出しをされながらと一日掛かりで何とか貼り替えを完遂した。

 ――にも拘わらず、シミは嘲笑うかのように相も変わらず浮き出して来る。

「何でこうなるのよ! あんた、ちゃんと貼り替えたんでしょうねぇ!?」

 家庭内は険悪になるばかりだ。


         ◇


 結局、業者に頼むしかなかった。壁の中の断熱材や木材、防水シート、外壁まで調べて貰ったものの、水漏れ等の異常は見付からなかった。

「取り敢えず実害はないようだし……」

「これじゃ恥ずかしくてお客を呼べやしないっ。どうして契約する前にチェックしなかったのよぉ!」

 二人して内覧会に足を運んだ時点で何も妙な点はなかったのだが、妻はやり場のない不平不満の矛先をここぞとばかり私に向ける。その度に、私は一家の大黒柱としての威厳を示すべく言い返す適切な言葉を探すのだが、決まって妻の間髪を入れない激語にやられてしまう。

「何よ、その目は……何か文句でもある訳ぇ!?」

 私は、昔から必要以上に人の顔色を窺う癖がある。それからでないと、とても自分の意見を口に出来ない。

 妻の顔色から察するに、今は何を言い返しても駄目だ。言い返せば暴力を誘発し兼ねない。

 私がまごまごし続けていると、下校して来た娘が開口一番、叫んだ。

「このシミ、何か人の顔に見えるじゃぁん、キモッ!」

 確かに、見ようによっては恨みがましい女の顔っぽい。

「ほら、こうして大き目のカレンダーを貼れば気にならな――」

 ぎこちない笑顔で場を執り成そうとしたその時にはもう、妻も娘も居間から出て行った後だった。


              ◇


「何だこりゃ!?」

 その朝、寝惚け眼の私が目の当たりにしたのは、カレンダーの表面にまで浮き出したシミだった。        

 この有様を知った妻や娘は、すっかり居間に近寄らなくなってしまった。

 毎晩、仕事から帰ると、妻と娘が明るく出迎え、居間で和気藹々とした団欒が始まる――そんな細やかな夢は露と消え、実際に待っているのは、開かずの状態の暗い居間で日に日に成長するシミだけだった。

「お前の所為で家庭は滅茶苦茶だっ!」

 私は、幾度となくシミの浮き出た壁を殴り、拳の痛みに苦悶の声を上げたり、悔しさから今度は蹴って筋を痛めたりした。

 やがて酒量が増え、夜な夜な一杯引っ掛けてから帰宅するようになった。そして毎晩、シミを相手に管を巻くのである。

 仕事の不満から政治批判まで、私は何でもんでも喋り捲った。当然、シミは無言で私の憤懣を引き受けてくれるから、どんどんエスカレートして行く。

 時に怒り、時に泣き、笑ったかと思えばまた怒り、アトランダムに泣き笑いを繰り返した。そんな私の狂態を薄気味悪く感じた妻は、娘を連れて実家へ避難してしまった。

 このままではいけない――こうして私はその方面の専門家探しに奔走したのだった。


         ◇

                      

「このまま放置しておいたらシミはどんどん大きくなり、やがて家全体を腐らせ、瓦解させるでしょうな」

 女霊媒師は他人事のように言い切ったが、他人事なのだから他人事のように言うのは当然だ。

「どうすればっ、どうすれば良いのでしょうかっ!」

「ここから先は別料金になります」

「……お幾ら程でしょうか?」

 既に相談料として税込み5万980円円を支払っていた私は、恐る恐る訊ねた。

「即金で、税込10万980円です」

 女霊媒師は事もなげに言ったが、私は動揺を隠せなかった。

「あのぅ、もう少しお安くなりませんか?」

 女霊媒師は、理解に苦しむという表情でざっくばらんに切り返した。

「あのね、自縛霊さんは元々この土地にいらっしゃったの。あんたの家族は言わば勝手にここに住み着いたんだよ。どちらに非があるかは言うまでもないでしょ」

 値下げ交渉をしたつもりなのに、何故か責任の所在の話になっている。

 三十年ローンの完済までは、まだ二十九年十一ヶ月強、残っている。別居状態の妻子を連れ戻し、平和な家庭を取り戻す為、私は親戚、友人知人のもとを回り、何とか10万円を掻き集め、端数の980円は職場の昼飯を三回抜く事で捻出した。

 後日、代金を受け取った霊媒師は早速、何かお経のような呪文のような意味不明の言葉を繰り返し、時折、きえっ、きょえっ、と奇声を上げた。

 それだけだった。

「後はこのマニュアルに従ってご自分で対処して下さい」

 そう言って、霊媒師は税込み1980円の薄っぺらい冊子を売り付けて帰ってしまった。


         ◇


 私は真面目にマニュアルに従った。

 専用通販サイトで税込み2980円の日捲ひめくり御札を購入し、セット販売で幾らかお得になる税込み980円の供物を毎日欠かさず供え続けた。

 すると、シミに変化が現れた。

 恨めしさを呈していた形状が次第にぼやけ始めて行く。

 シミが完全に雲散霧消する日もそう遠くないと見切った私は、妻子を迎えに実家へ飛んだ。


         ◇


「こんなインチキ商品なんか掴まされてっ!」

「ばっかじゃないのぉ、霊媒師なんて詐欺に決まってんじゃんっ!」

 鬼の形相の妻と蔑み顔の娘に散々悪態を突かれながらも、私は壁に向かって静かに合掌し続けた。熱心な供養の甲斐があったようで、今やシミは観音菩薩のような形に変じ、穏やかに微笑んでいる。愚痴も聞いてくれる。私は今も毎日の供物を欠かさない。

 他人ひとにこの話をすると、必ず否定される。単なるシミだよ、偶々そんな風に見えるだけじゃないか、と笑われる。

 しかし、私は他人の顔色を窺う事に関しては些か自信があるのだ。

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