あたらしいであい①(奏良&勝真)
温かかくて心地よかった。
起きるのがもったいないと思えるほどに名残惜しい気持ちを抱えながら目を覚ますことなんて、今まであっただろうか。
ぼんやりと瞼を開いて、奏良はようやく違和感に気づいた。
「………葵衣さん?」
問いかけは確かに自分の唇から零れた。
葵衣はまだ眠っている。確かに存在は感じているのに、目を覚ます兆しはない。
奏良は戸惑った。
今まで葵衣より先に目が覚めたことはなかった。だから、奏良はこの状態を想定していなかったのだ。
大事に大事に抱え込まれた身体は、温かさと労りに満ちているかのようで。
当たり前のように触れ合った部分で境界を無くした互いの体温も。ごく平穏に緩やかに響く鼓動や呼吸の音も。
まるで守られているかのような安らぎを覚える心地好すぎる場所で。
初めて自らの五感を通じて、自分のものとして知ったその感覚に驚き。同時にその安らぎを求めるような気持が湧いた。
そんな自分に、奏良は愕然とした。
自分のものではないのに。葵衣に身体を貸している恩恵をうけて、勝手にそんな心地よさを受け取っておいて。
……なお、求めてしまうなんて。
あまりにも、卑しい。
卑しい盗人。恥知らずな物乞い。貧相で穢れたガキ。可哀想な放置子。
頭が悪いから勘違いしてるんだ、とも言われた。
自分がそんなものだと、奏良はよくよく理解していた。
卑しく、浅ましく、厚顔無恥で恥知らずで、穢れた盗人。
自分のものではない、それも、大事な人の幸福を享受しようとしている、卑しい盗人だ。
なのに、突き放せない。
「葵衣さん……葵衣さん?」
罪悪感に駆られて、奏良は何度も葵衣を呼んだ。
奏良が葵衣を見ているときと同じ感覚であるのならば、呼びかければ起きるかもしれないと思った。
慌てていた奏良には、それがどれだけ奇怪なことなのかなんて、考え及ばなかった。
もぞりと視界が揺れた。
釣られるように顔を上げた奏良は、自分の身体を抱きかかえている勝真と目が合って、どうしていいかわからずに眉尻を下げる。
気まずいというよりは、情けなくて恥ずかしかった。
葵衣と一緒の身体にいることを免罪符に、愛される心地よさを勝手に掠め取っていた自分が、自分勝手で卑劣な悪人に思えた。
勝真はしばらく奏良の顔を見つめて、それから身を起こした。
奏良が戸惑って笑っているしかないうちに、狭いベッドの上に自然な間隔ができる。
「君が奏良くんか。すまない」
静かに真摯に声を掛けられて、奏良は安堵を覚えた。
きっと、奏良と同じだけ慌てたり動揺を返されていたならばもっと混乱していただろうし、急いで距離を取られたならば平謝りしていたかもしれない。
勝真の取った間も言動も、自然でそつがないものだった。
初めて見た時の、憔悴して泣きはらした顔でもなく。葵衣にただ謝り続ける哀れげで痛ましい姿でもない。葵衣の後を追い、不安そうに捕まえておこうとする、そんないじらしさも見る影がない。
泰然と、穏やかに、スマートに、奏良を気遣う。
大人だと思った。初めて自分の目で見た勝真は、奏良にとって見知らぬ大人だった。
今初めて、奏良は勝真と出会ったのだ。
奏良は急いで上半身を起こして、思っていたよりもずっと高くにある勝真の顔を見上げ、ぺこりと頭を下げた。
「武内奏良です、勝真さん。はじめまして……っていうのも、何か不思議だけど」
「ああ。桐ケ谷勝真だ。初めましてで正しいんじゃないか」
勝真はまた少し身体をずらして奏良と向き合いやすいように位置を調節し、静かに頭を下げた。その所作をぼーっと見つめていた奏良の顔を見つめて、ほんの少しだけ目元に力が籠る。わかりにくくも表情が曇ったことに、奏良はたやすく気が付いた。
「葵衣にもう一度会わせてくれて、感謝している」
勝真は深々ともう一度頭を下げた。
予想外の動きに奏良はうろたえて、慌てて弁解した。
「あ、いや、違って、葵衣さんは眠ってるだけだから!ちゃんとここにいるよ」
「そうか……。ありがとう」
目の端にほんのりと安堵を乗せて、勝真は淡く微笑んだ。
奏良はなんだかここにいるのが自分であることが申し訳ないような気がしてきた。
「お礼言われるようなことなんて何もないよ。俺、どうせ死のうとしてたんだ。橋から飛び降りようとしてたら、葵衣さんが流れ星みたいにどーんって落ちてきたの。だから、別に」
誤魔化すように曖昧に笑う。
自分が居心地の良さを掠め取っていると自覚してしまったから、奏良は感謝されることが後ろめたかった。
「そうか。葵衣は君も助けたかったんだろう」
「えっ」
「そういうやつだろう?そんな所を見かけたら、考える前に突撃していくさ」
勝真は柔らかに奏良に笑いかけた。優しく緩んだ目元が、葵衣を想っていることを語っている。
「そう……そうかも」
言われてみると、勝真の言葉はすんなりと真実として奏良の心に響いた。
見知らぬ他人でしかなかった奏良のために泣いたり笑ったりしてくれる葵衣が、命を絶つ瞬間に出会って止めない訳がない。
だから、ぶつかってきたのだ。
星は自分のためと言いながら、最初から奏良のことも想ってくれている。
キラキラと胸に宿る輝きは、どこまでも切なく温かく優しい。
一緒に過ごすうちに、奏良は葵衣のことが大好きになっていた。
同時に尊敬もしていたし、応援したくも思っていた。
葵衣が勝真に幸せになって欲しいという想いを理解した。
だって、奏良も葵衣に幸せになって欲しいと思ってしまったのだから。
「俺なんかでも、葵衣さんの役に立てて嬉しい。他に何の役にも立たないけどさ」
奏良には、それだけで十分だった。
自分の人生の最後に、最大の意義ができた気がしていた。
しかし、上機嫌でそう伝えると勝真は真顔で軽く首を傾げ問うた。
「誰の役に立ちたいんだ?」
「えっ?」
「具体的に、何の役に立てばいい?」
「いや、……わから、ない、けど」
問われてみて、奏良は呆然とした。今までそんなことを考えた事はなかった。
何の役にも立たない。むしろ、邪魔でしかない。
そう思い知って生きてきた。だから、それは奏良にとっては確定事項みたいなものだったのだ。
「誰の何の役に立てば価値があるなんて、どうやって決まるんだ?そんなの誰にも定義できないだろう。個人の主観に左右されるような曖昧な理屈なんて、考えるだけ無駄だ。
それに、俺にとっては君は葵衣にもう一度会わせてくれた恩人だ。これから先、一生感謝するだろう」
どきり、と奏良の心臓が身に馴染んだ音を立てた。
くすぐったくて甘い、葵衣が宿らせているものと同じ鼓動だった。
「葵衣も昔は君のようによく俺なんかって言ってたよ。就職して職場が合わずに体調を崩して、二年かけて三度目の職場に落ち着いた。一人暮らしは厳しい収入かもしれない。それを難があるという人間はいるだろう。
だが、誰がどう判断しようと、葵衣は俺には一番大切だ。他の誰かの価値観なんてどうでもいい」
勝真は淡々と語った。それが、自分の決めた揺らがぬ真実で、それ以外のことは取るに足らないのだと。自信気に、堂々とした様子で。
「……葵衣さんが言ってた通りだ。勝真さんは格好いいね」
ふわりと笑みがこぼれた。
自分はどんな風に笑っているだろうか。どう表情を動かせばいいのかなんてとうに忘れてしまっていたから、奏良の頭の中には葵衣の笑顔が浮かんでいた。
葵衣が葵衣である理由が、勝真の中にあるような気がした。
この人に愛されてきたから、葵衣は強くて優しくて温かい。
幸せになって欲しいと思った。
葵衣に幸せになって欲しいと思うのと同時に、葵衣が願うように、勝真にも幸せになって欲しいと。奏良は心からそう思った。
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