第17話

 翌日、学校で栄治に会った時、僕は目を見張った。真っ白い顔に新しい痣ができているから。

「……お父さんに殴られたの?」

 栄治は頬杖をついているけど、その腕にも痣がある。まさか、僕の家にいたことがバレたのか? 心配していると、憂鬱そうに聞かれた。

「裕太って、親に殴られたことある?」

「無いよ」

 栄治は力なく、微笑んでいる。僕は恐る恐る「虐待されてるの?」と聞いたけど、すぐに「違う」と否定された。

「ゲーセンに行ったことを叱られただけ」

 僕の家にいたことはバレていないらしい。でも、僕は安心できない。

「いつも喧嘩してるわけじゃないし、殴られたことなんて、一度も無かったよ。裕太と会うまでは」

「え?」

 罪悪感を刺激されて、ゾクッとした。

「なんで僕と会ってから、殴られるようになったの?」

「知らない」

 大紀の暴力の責任が僕に転嫁されている。でも、僕は拒みきれない。

「母親と目を合わせられた?」

 僕は首を振った。

「栄治こそ、お父さんと目を合わせられた?」

「うん」

「……ひょっとして、不倫のこと知ってた?」

「………………」

 栄治は口を閉ざしている。周りに沢山、部外者がいるから、話しづらいのかもしれない。「廊下に出よう」と促すと、立ち上がった。二人で誰もいない階段の踊り場まで来た。

「あの五重塔で写真を見せてくれたのは、不倫のことを知らせるため?」

 栄治はまだ答えない。

「僕のお母さんは、栄治の家に行ってたんだよね? 『主婦業の息抜き小旅行』って、嘘ついて……栄治のお母さんと仲直りするために」

 突然、栄治は僕の頭に手を置いた。僕は抵抗できず、茫然とした。くしゃっと髪が撫でられる……どうしようもなく、鳥肌がたった。

 火傷を痛むほど強く摘まれて、「やめろ!」と怒鳴った。栄治の微笑は消えていく。

「何もかも当たってねえよ」

 冷淡に告げられた。

「お目出度い奴だね。それとも、都合よく馬鹿にできてんのかな」

 僕は負けじと叫んだ。

「やっぱり、ぜんぶ知ってんだな? 白状しろよ! お前は何がしたいの?」

 その瞬間、僕の髪は乱暴につかまれて、火傷が引き寄せられた。

「何も」

 俺は真っ赤な嘘を吐き捨てた。

「……『復讐』したいんだろ? 僕から……母親を奪うんだろ?」

 栄治は感心するように、瞳を輝かせたが、すぐに光は失せた。

「そんなことしない」

「だったら、なんで、僕につきまとうの?」

「………………」

 俺はもがく裕太を見て、甘い心地になって、やっと自覚できた……俺は裕太を殺したいんだ。本当に命を奪うんじゃなくて、生き地獄に突き落としたい。

 裕太の髪から、手を離してやった。

「裕太のママは、俺のママにならなくていいよ。大紀だって、裕太のママが欲しいわけじゃない。だって、俺のママが、ちゃんといるから」

「……でも、栄治のお父さんは、僕のお母さんと不倫してたじゃん! 昨日、聞いただろ?」

「いいや。俺のママだったかもよ」

 栄治は試すような眼差しを向けてくる。

「だって、俺のママが失踪したから」

「……?」

 栄治の言動に脈絡が無いのは、いつものことだけど、余りにもぞんざいだ。自分の母親が失踪したのに無関心的だ。その場の思いつきで、言ったような……。

「いつから?」

「昨日」

 即答されて、心がヒリヒリと焼けついた。栄治は平気でつけ加えた。

「変な事件に巻き込まれて、死んだかも」

 声音には、悲しむ響きが一切、無い。

「警察に相談したよね?」

 裕太の目を――自分を狂人として蔑む目を――俺は真っ直ぐ見つめ返した。

「したよ」

「………………」

「もしかして、俺のママと、裕太のママは入れ替わってるかも」

 栄治は提案するように言う。僕は目を逸らさなかった。獣の一挙手一投足を警戒するように。

「だから、失踪して死んだのは、裕太のママかもね」

 僕は駆け引きなんかできず、その間合いに踏み込んだ。

「そんなこと――」

 栄治は容赦なく遮った。

「どうして、自分の母親が、本当に自分の母親だって、信じられるの?」

 栄治は威嚇するように、僕を睨んだ。

「俺には無理だよ。だって、裕太のママは、俺のママとそっくりだし」

「でも、入れ替わったなんて、ありえない!」

 僕は不倫した後の母を想い返した。何も変わっていない、いつも通りの様子だった……不倫を犯した罪悪感なんて、微塵も無さそうな……だから苦しくて、僕も、母と叔母が入れ替わってるんじゃないかって疑ったことがある。でも、ずっと一緒に生きてきた直感で、そんなこと、やっぱり、ありえないって確信できるんだ。

「栄治のお母さんが、僕のお母さんになりきれるわけがない」

 はっきり断言した。栄治は何も言い返さなかった。すると、力が湧いてきた。これまで、その手のひらの上で揺らされていたけど、やっと同じくらいの大きさになって、向き合えているみたいだ。

「母親が失踪したのに、そんな絵空事を言えるなんて、おかしいよ……栄治はお母さんと、あまり関わったことが無いから、僕のお母さんと見分けがつかないんじゃないの?」

 僕はこの期に及んでも、栄治と母親の関係に触れることに心苦しくなっていた。でも、栄治はこの心を軽くかわした。

「証拠も無い俺の推理だし、笑い飛ばしていいよ。裕太の言う通り、やっぱり失踪したのは、俺のママで間違いないかも。でも、何も知らない癖に、よくそこまで自分の母親を信じられるね」

「当然だろ……ずっと、一緒に生きてきたんだから」

「大紀と不倫していることを知らなかったくせに。いい加減、平和ボケから目を覚ませよ? お前が知らないことなんて、いくらでもあるんだから。お前がどこまで、自分の母親が、自分の母親でしかないって、信じられるか分からないけど」

「……何が言いたいの? 本当に、僕に何もする気が無いなら、どうして、そんな……やっぱり、不倫が許せないんだろ?」

「確かに、俺の母親がいなくなったのは、不倫のせいかもね」

 栄治が僕の間合いに入り込んできた。

「裕太のママが、裕太を大事にしているから、俺のママは生まれても、殺されて、死ぬしかなかった」

「………………」

 全く理解できなかった。『どうして』と心の中で叫んだ。栄治が語ることが支離滅裂な絵空事だとしても、何故そんなものを、僕に向かって描くのか?

「遺体は見つからないかも。だって、目に見えないほどバラバラにされているから」

 不気味なほど、淡々と語った。

「そんな惨いこと言うなよ……母親を怨んでるの?」

 栄治は嫌悪感を露わにして、顔を逸らした。初めてのことだ。本心を突く問いだったのかもしれない。「もう教室に戻ろう」と、はぐらかしてきた。

「僕の家にいるのが、本当に僕のお母さんか、栄治のお母さんか、確かめてくるよ!」

 階段をのぼりかけた栄治が振り返った。僕は挑むように、睨み上げた。栄治は「そうすれば?」と、興醒めしたように吐き捨てた。

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