第7話

 六月の中旬頃、体育祭が開催された。やる気は無かったけど、僕はサボらずに参加した。

 お昼休憩になって、生徒が家族とピクニックを始めた時、光太が「一緒に食おう!」と誘ってきた。中学一年生の時は、僕の家族も体育祭を見に来たけど、中学二年生の時は来なかったから、光太一家と昼ご飯を食べた。今年も同じだと思いきや、「すいません」という大人の声が割り込んだ。振り返ると、背の高い男がいて、傍に栄治がいる。

 凍れる音楽の下で見た写真が心に浮かんだ。母とそっくりな叔母を抱き寄せる謎の男――そいつが目の前にいる。「一緒に食べませんか?」と誘ってきた。光太は男に遠慮して、引き下がった。僕は謎の男と、栄治と、ピクニックすることになった。

 小さなブルーシートの上で、弁当箱が開かれた。男はビニール袋から出した缶ビールをいきなり飲んでいる。それから、「加藤栄治の父親の、加藤大紀と申します」と自己紹介した。

「いつも栄治が世話になってます」

 僕は「いえ」と頭をさげた。大紀は細身で、髪がぼさぼさだ。大きな目が吊り上がって、鼻がやけに高くて、蛇のような雰囲気がある。僕の警戒心を溶かすためか、人懐っこい(胡散臭い)笑顔を浮かべて、会話を仕掛けてきた。

「裕太君さ、学校で栄治とどんな風に過ごしてんの?」

「普通に、喋ったりしてます」

「へえ。去年、引っ越してきたんだけど、こいつ友達がつくれなかったみたいで、心配してたんだよ」

「そうだったんですか……」

 大紀はフランクに喋り続ける。

「裕太君って、運動神経いいの?」

「そんなによくないです」

「そう? 足はやく見えるけど」

「いえ……」

 これほど積極的に同級生の父からアプローチされたことは無いから、僕はたじろいだ。それに、大紀が暴力をふるう父親だと知っているから、愛想良いのが、むしろ怖かった。でも、大紀は栄治にも「暑いなあ、まだ夏じゃないのに」と友人のように話しかけているし、栄治も笑顔で「しかたないじゃん、温暖化だもん」と答えているから、父親と息子だけで暮らしていると、それぐらい荒々しい関係になるのかなあ、と納得しておいた。

 栄治から「卵焼きを交換しよう」と提案された。僕は頷いて、栄治の弁当箱を覗いた。

「手作り?」

「卵焼きだけ、自分でつくった」

「すごいね。僕はお母さんにつくってもらったのに」

「……ふうん」

「料理、得意なの?」

「俺が家事を全部やってるから」

 父親が世話を焼いてるって、言ってなかったっけ? 大紀をチラッと見たけど、缶ビールをあおっている。

 二人で卵焼きを交換して、食べた。

「おいしい!」

「裕太のお母さんのも、おいしいよ。もう一つ貰っていい?」

「いいよ」

 卵焼きが栄治の弁当箱に運ばれた。すると、大紀が手を突っ込んで、乱暴に卵をつかみとり、食べてしまった。栄治は「俺のだよ」と怒った。大紀は「うまいねえ」と感心している。僕はなぜか自分の心が蝕まれていくように感じた。

 食後に大紀がクーリッシュを投げ渡してきた。吸ってみると、ドロドロだった。大紀がじっと見てくる……もしかしたら、二つのクーリッシュを親子で食べるつもりだったのかもしれない。想像すると、甘味に苦味が混じった。

 三人とも一息ついた後、大紀がおもむろに切り出した。

「裕太君のママって、俺達のママのお姉さんなんでしょ?」

 俺達のママ、という言い方に気持ち悪さを感じたけど頷いた。

「どんなママなの?」

 栄治と同じような質問だ。奇妙だけど、あまり気にし過ぎないように、「普通の母親です」と答えた。

「普通?」

 大紀は声をあげて笑う。そんなに変なこと言ってないのに、僕は不安になった。

「家事とか、ちゃんとやってんの?」

「やってますよ……」

「へえ、そう!」

 酔っぱらっているのか、大紀の頬は紅潮している。僕は堪らず、問い詰めた。

「栄治にも聞かれたんですけど、なんで僕の母のことを気にするんですか? やっぱり、僕の母が……栄治の母親と仲悪いからですか? 僕の母に言いたいことがある、とか?」

「言いたいことは、あるけどねえ?」

 大紀は片眉をあげて、栄治を撫でる。

「むしろ、裕太君のママが家族と仲悪くなったのは、俺達のママのせいだから」

「え?」

「俺達のママが奔放な人で、家族を振り回したから、裕太君のママは呆れて出ていったんだよ。仲直りできるといいんだけどねえ」

 栄治は黙って、大紀を睨んでいる。二人の間には何かが在るようだ。

「……栄治から聞きましたけど、一か月に何日か会ってるんですよね?」

「ああ、ママと? 別居したんだけど、栄治が駄々をこねて会いたがったから、引っ越してきた」

「そう、だったんですか」

 栄治が気まずそうに、訂正する。

「俺はいいって言ったけど、大紀が意地を張るから」

 大紀は嘲笑った。

「我慢しきれないところが、奔放なママに似てるよな」

 そう言いながら、栄治の長髪をなぜている手つきが、なんか、ゾワゾワさせられるものだった。栄治も嫌そうに縮こまっているけど、大紀の手を払い除けようとはしない。

「でも、引っ越した意味は無かったね。ママの気が変わるわけでもなし、復讐するわけでもなしに」

 物騒な言葉に、僕は怯んだ。栄治が「大紀!」と怒鳴った。

「でも、栄治がしたいことでしょ?」

「やめてよ……」

 栄治は乞い願ったが、大紀は急にブルーシートを片づけはじめた。

「埒あかないじゃん? 裕太君も付き合わせて、可哀想だし」

「やめて!」

 大紀も得体の知れない怪物だ。

 僕はもっと勇気を出して、聞いた。

「……『復讐』って、どういうことですか?」

「なんでもないよ」

 大紀はブルーシートを畳みきった。何か、もどかしくハッキリしないことがある。微妙に何かを隠されている。

 きっと、栄治と大紀にとって、母のことを話し合うのは辛いことなんだろう。そこに僕を巻き込んだのは……僕の母と栄治の母が不仲であることを、どうにかしたがっているから? ……そう考えるしかなかった。

 栄治も大紀も何か肝心なところで、躊躇している。まるで、その爆弾を一発落とせば、戦争を終わらせられると分かっているのに、威力が余りにも凄まじいから、落とすことを躊躇っている、みたいな……不穏な気配がする。

 スピーカーが鳴って、お昼休憩が終わった。

 僕は迷った。これ以上、母と叔母の問題に首を突っ込むべきではないかもしれない。自分がその問題に決着をつけられるとも思えない。僕は奔放ではない両親に守られながら育ったけど、そのせいで、子どもっぽい甘えがあるんだ。『よく分からん大人の問題は大人が解決してくれるはずだ』っていう……でも……。

 ブルーシートを脇に挟んだ大紀と目が合った。僕は反射的に逸らした。すると、弱弱しく怯えている栄治が見えた。その顔は、やっぱり、僕の母に似ている。

「楽しいランチだったよ、ありがとね」

 大紀から感謝されたけど、全然清々しくない。僕は栄治からも目を逸らして、「いえ」と首を振った。

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