041:開かずの扉⑤




 ヴァルキリーは自分を導き入れた少年を見やった。歳の頃は十三か四。黒い詰襟の服を着ている。上下揃いで黒いのは何かの制服だろうか。見慣れた顔立ちにそれが誰かヴァルキリーはすぐにわかった。少年はヴァルキリーとしっかりと手を繋いでいる。


 二人が立っている場所は細長く狭い板間。薄暗いそこは廊下のように見える。その突き当たりにもう一つ部屋が見えた。あのお香の匂いがヴァルキリーの鼻腔をくすぐった。

 少年が無言でヴァルキリーの手を引いた。突き当たりの部屋、横引きの扉を抜けて部屋に入る。


「サクヤ‥」


 六畳の和室。外は夕焼けが差して空が赤い。薄暗い部屋の北側、作られた仏壇の前で朔弥は手を合わせていた。目を開けてふとヴァルキリーを見上げた。


「ヴァルキリー‥‥」

「私も手を合わせてもいいかな」

「ああ」


 事情も宗教もわからないだろうにヴァルキリーは朔弥が誰かをいたんでいるとわかっていた。朔弥が仏壇から退いた後、ヴァルキリーも正座して目を閉じ手を合わせる。そして仏壇の遺影を見やった。


「ありがとな」

「こちらがサクヤのおじいさまに‥お父さまね?」

「うん」


 ヴァルキリーが振り返り戸口の少年を見やった。少年は立ったままずっと朔弥を見ている。


 あれは昔の朔弥。

 ここは時が止まっている。ずっとこのまま。


「私のこと呼んだよね?」

「呼んだ‥のか。呼んだんだな」


 勇気が欲しいと。逃げない勇気が。

 もう逃げたくない。


 朔弥は壁に寄りかかり腰を下ろす。深い息を吐き出した。


「もう疲れた。もう終わりにしたい。ずっとそう思っていた。だのにヘタレな俺は逃げたんだよ。あの時」


 精霊界に召喚された時に———


「召喚はニクスがしたよ?」

「あれはキッカケだ。あの崩落で俺は終わると思ったんだよ。ああ、これでこの世から逃げられるって」


 朔弥は己が膝を抱え込んだ。


「この世界に来て毎日楽しくて。可愛いルキナのお世話してメシ作って。みんな優しくて賑やかで。もうあっちの世界はいらない。ずっと精霊界ここにいられる。全て忘れようって逃げて。なのにこの部屋は追いかけてくる。毎日キッチンにいてメシ旨いって喜んでもらえて嬉しくて。まるで寮にいた頃みたいに楽しくて。現実は精霊界なのに、でも振り返るとこの扉が見えて。そして俺はここに戻される。常世あっちはもうどうでもいいと思うのに、忘れるなって」

「忘れたらダメ?」

「ダメだ。逃れられない」


 己の犯したカルマから。

 カケラも罪をあがなっていないのに。

 誰も罰してくれない。


 朔弥が震えて膝に顔を埋める。


「何があったの?」


 精神の大精霊。あの少年を見て、この部屋に入った時点で全てわかっているだろうに。さらに問うのかとその無遠慮に朔弥が顔を顰める。ヴァルキリーを恨みがましく見据えた。


「わかるなら言わせるなよ」

「こういうのは言葉にすると気持ちが晴れるもんだよ?話してみたらどうかな。私でよければ聞くよ?」


 気持ちが晴れるんだろうか。だが多分それが精神の大精霊を欲した理由だ。


 この大精霊は多分、俺と同類だ。

 同じ匂いがする。傷を負い痛みを知っている。


 勇気が欲しい。逃げずに踏みとどまる勇気が。




 朔弥がポツリと小さく吐き出した。


「俺さ、ずっと一人だったんだよ」


 仏壇の遺影を見やる。見た目は自分に良く似た男。生物学上の父親。だが中身は全然違う。


「母親がいなくても子供の頃から自分のことは自分でできた。それで生きられたし生活も支障なかった。まあ親父が俺を養ってたからなんだが。感謝すべきなんだろうけどな」


 自分より二十年上の男。まだ若々しく二十の子持ちにも見えない。誰に微笑んでいるかわからない遺影のその笑顔をじっと見据える。


「俺んちさ、親父がすげぇモテたんだ。顔よし仕事デキる金あるそつがない、そんでもって社交的。四十で会社重役とかすごいじゃん?弱点なし!さらに手先器用でスポーツ万能。ホント俺と正反対。俺は絶対親父に敵わない。子持ちなのにいつも女が群がってて親父もそれを嫌がんない。別に女に節操なしでもないが惚れっぽくて。まあ懲りずに結婚するわけ。そして離婚する。あ、離婚ってわかるか?」

「うん、もう好きじゃない」


 朔弥が苦笑した。表現が直球すぎる。


「もうちょい複雑かな。親父は相手を嫌ってない。相手の方がキレる。まあ親父に女が群がってるから。親父に悪気はない。博愛主義?悪気がないから浮気じゃないらしいよ?だからその無神経にみんなキレるんだよ。痴話喧嘩に巻き込まれて俺もよくキレた、いい加減にしろってな。よくグレなかったな俺。その度胸もなかっただろうけど」


 ヴァルキリーはサクヤの正面で正座してただ静かに聞いていた。


「一応?最初の頃は相手の女性と仲良くなろうとしたんだ。だが三回目で諦めた。どうせ離婚する。そして四回離婚した」


 ふぅとまたため息が出る。


「離婚騒動でうんざりしてじいさんの家によく転がり込んでた。じいさんと親父は絶縁してたからあそこは聖域だった。まあ離婚四回で懲りたのかしばらく再婚はしなくなった。女関係は相変わらずだったけどな。だけどあの日———」


 学校から帰れば誰もいないはずの家に女性がいた。

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