017:成長熱③




 朔弥は真っ白な世界にいた。最初に召喚された時に見た景色に似ている。それは天井だ。だが精霊界でも朔弥がいた世界でもない。ここはまた別の世界。


 あ、俺寝てる。ここどこだ?


 目の前に映る手は明らかに自分ではない。それは女性のもの。そして視界が動き傍を見る。そこには寝息を立てて眠る男性。この女性のツガイとわかる。愛しい夫。出会って恋に落ちた。そして愛し合い結ばれた。それなのに‥‥


 このヒトはなんで泣いているんだ?


 女性の視界が滲む。ただ涙が溢れている。これはこの女の悲しみ。こんなに愛しいのに愛せない。自分はこの男にふさわしくない。なぜもっと早く巡り会えなかったのか。


 すでに夫と子供がいる自分では———


 夫がある身で他の男の妻になる。その世界ではそれは重罪。だが王命でそれも無とされた。二人は王命で結婚した。だが女の心が許さない。罪悪感に塗れている。


 その一方で朔弥はこの女とは別に、なぜかこの現実を淡々と受け入れている意識体も感じられた。


 なぜ?愛し合っているのになぜ拒絶するの?

 出会いが遅れただけ。

 この男はお前の運命のツガイなのに。

 何も心配することはない。夫だった男もお前を愛していたわけではない。金で身を引いた。王が許した婚姻。罪悪を感じる必要もない。


 だが女性の意識がそれを許さない。愛しているから許せない。信仰心が深いが故。ただ絶望のどん底にいる。


 ふらふらと視界が揺れる。男は目覚めていない。立ち上がった女性の視界が揺れて窓に近づいている。窓から見える景色は空だけ。華奢な手が窓枠に触れ、そこから下を見下ろした。はるか下に木々が見える。そして朔弥の視界が変わった。女性の意識から離れた。窓から身を乗り出すまだ年若い女性を朔弥は背後から見下ろしていた。


 視界の端に小精霊が見える。必死に女性にまとわりついて思いとどまらせようとしている。そしてあの意識体も光り輝く手を伸ばすが、手は女性の体をすり抜けている。



 ダメだ‥そんなこと‥なんにもならない

 そんなことしたら残されたこの男はきっと‥‥


 

 朔弥にもわかる。それは最悪の選択だ。

 身を持ってわかっている。

 消滅は残された者にただ悲劇しか生まない。


 朔弥の必死に伸ばした手さえ女の体を突き抜ける。それは精神体の手。そこで自分が精霊だとわかる。自分の手が光り輝いている。これはヒカルと同じ手。だが違う。これは光の大精霊の手だ。


 そこで男の声がする。目を覚まし駆け寄ろうと身を起こし光の大精霊を呼んでいる。あの女を守れと命じる。だが間に合わなかった。


 窓枠から女の体が消える。ただその様子を見ることしかできない。目の前で失う。自分は何もできない。


 朔弥は衝撃で目を瞠っていた。それはその男の思いと同じ。その瞬間だけ二人は痛いほど気持ちが通じ合った。朔弥は力なくその場に座り込む。大事なものを失った。心が壊れる音がした。


 茫然と傍を見あげれば光り輝く美しい大精霊が見えた。体が透けている。朔弥と同じく茫然と窓を見ている。その顔がルキナに重なった。


 朔弥はようやく理解した。



 あぁ、これは夢だ。ルキナが見ている夢。

 犯してはいけない失態。

 守べき唯一のこの女性を死なせてしまった。

 これは前代の守護精霊ルキナの犯した罪だ。



 そこで朔弥は目を覚ました。







 身を起こした朔弥の息が荒い。まだ手が震えている。ひどい汗で全身ぐっしょり濡れていた。


 愛しい女の死。突然失った。あの夢は朔弥のトラウマにつき刺さった。


 そこで側にいるはずのルキナの姿がないことに気がついた。失う恐怖を疑似体験したばかりだ。朔弥からぞっと血の気が引く。


「ルキナッ」


 慌てて探すとルキナは朔弥の脚元に寝ていた。寝返りを打ってそこまで移動したようだ。朔弥の足に縋っている。朔弥から安堵のため息が出た。抱き寄せればまだ熱が高い。汗を流し荒い息をついている。夢を見ているのか眉間に皺が寄って苦しげだ。


「死なないでくれ‥俺を置いていかないでくれ‥‥もう失うのはたくさんだ‥」


 ガクガクと震える朔弥がルキナを抱き寄せ祈るように囁いた。


 大精霊は死なない。わかっていても恐怖で身がすくむ。ルキナが初めての犠牲者になるかもしれない。この熱がルキナを苦しめている。


「熱が邪魔だ‥‥俺に来い‥俺が受け止める」


 ルキナをきつく抱き寄せた。そうすれば灼熱の熱が朔弥の体に伝わってきた。肉体が残っていたら熱病で死んでしまうほどの熱さだ。


「ぐぅッ」


 ルキナを抱き寄せ苦悶の声を上げる。罰として業火の炎に落とされたような熱。これほどにルキナも苦しんでいたのかと朔弥から涙がこぼれ落ちた。


「ルキナ‥‥」


 ファウナはルキナが代替わりしたと言っていた。光の大精霊、ルキナの前代はあの失態で失脚したのだろう。そして新たにルキナが生まれ出た。死なない大精霊は一つの魂で代替わりする。だが前代の罪は消えない。己が犯していない罪を悔いあがない続ける。力を持った大精霊ほど高熱になるというのは高位ほどに背負うものが重いのかもしれない。


 抱き寄せるルキナが光り輝く。眩い光を発してルキナの輪郭が歪み大きくなる。そこには先ほど夢で見た女性によく似たルキナがいた。歳の頃は朔弥に近い。

 理屈じゃない。これが成長した新しいルキナの姿だと直感でわかった。ルキナがそっと目を開けた。


「さ?」

「あぁ、少し熱が下がった‥よかったな」


 全ての熱を引き受けることはできない。これはルキナのカルマ。ルキナが贖うもの。だが一緒に背負ってやることはできる。


「さ‥」

「安心しろ。側にいる。一緒に頑張ろうな?」

「さ‥」


 溢れんばかりに微笑んだ大人のルキアが朔弥に抱きついた。そっと手を背中に這わせる。そして寝息を立て始めた。眠りについたようだ。同時に光が弾けてルキナは大人の姿から子供の姿に戻っていた。朔弥は力尽きてルキナと二人でマットに寝転がった。ウォーターベッドがちゃぷんと水音がする。


「ぐぇ‥熱い‥なんだこれ‥こんなんじゃ全然眠れない。氷の、いる?」


 ふわりと氷の小精霊が現れた。背中の翼が水晶の結晶のように尖っている。なぜか小精霊がイナゴの大群で現れない。氷が一体だけが現れた。そこを不思議に思う思考の余裕も今の朔弥にはない。


「このマットの中の水の半分を凍らせられるか?氷は塊じゃなくて砕いた氷を作るんだ。イメージは———」


 グラスに入っている氷。キンキンに水が冷える。氷の小精霊がペタリと小さな手で朔弥の額に触れた。冷気が朔弥の体内を駆け抜ける。体が冷えて体温が少し下がる。朔弥の寝転がっている下、ウォーターベッドの中から小さな氷の結晶が生成されていく。冷えたベッドは全身用の巨大な水枕だ。


「うわぁ冷えてきた。すげぇな氷の。サンキュ」


 傍のルキナも冷えて気持ちよさそうだ。そっと抱き寄せて朔弥も目を閉じた。

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