本屋を抜けた世界
折上莢
第1話
私は本屋が好きだ。元来本を読むのが好きで、小さい頃からよく本屋に来ていた。綺麗な表紙を見るのも好きだし、並んでいる背表紙を一つずつなぞっていくのも好き。今日もそうしながら、今日も今日とて本屋を歩いていた。
背表紙をなぞって歩いていると、いつの間にか本屋の端にたどり着いてしまったようだ。今度は別の棚に行こうと踵を返した時、ふわりと花の匂いがした。
「…花…?」
私、美々子は、その香りに釣られるように、本屋の壁に寄っていった。
花の香りは、この壁からする。
「香水…? でもないような」
獣人が主役の小説が原作の作品の、アニメ化を謳うポスターに手を触れる。微かにそのポスターから光が発されたような、気がした。なんとなく、花の香りも強くなったような。
もう一度、今度はちゃんとポスターに触れる。
視界が光に塗りつぶされた。
「っわ…!」
花の香りと紙の香りが混ざる。それを載せた強風が、私の髪を巻き上げた。
風が止む。恐る恐る目を開けると、ぼんやりとした光が目に入ってきた。
慌てて辺りを見渡す。先ほどまで本屋にいたはずなのに。
眼前に広がっていたのは、神社のお祭りのような光景。でも、私の知っているお祭りじゃない。
神社ではなく花畑の中にあるようだ。売られているのは知らない食べ物や大きな宝石のついた装飾品。それを売っているのは、獣の耳が生えた人間のような者たち、獣人だ。まばらにいる客も獣人だ。
「え、…え?」
脳が状況理解を拒んでいる。
先ほどまで本屋にいたのに。あれ?
「あれ…?」
「おや? お客さん珍しいね、外から来たのかい」
声をかけられ振り返る。真横にあった屋台にいるのは、ニコニコした老婆。頭の上に猫の耳があり、背中の向こうにはゆらりとしっぽが揺れている。
「外…?」
「あんた、人間だろう? ここはあんたの世界から見たら裏の世界。獣人たちが住まう世界さ」
老婆がちょいちょいと手招きする。往来に立ち竦んでいたら邪魔になると思い、老婆がいる屋台に入った。
「あ、あの、帰りたいんですけど」
「うん? 望んで来たんじゃないのかい?」
「ほ、本屋にいて、ポスターに触ったら、急に」
「ふむ…事故かい。困ったねえ、行き来する扉はどこに発生するかわからないんだよ」
「そんな…」
ふと、老婆が売っているものが視界に入った。日本語でタイトルが書かれた本。
「これ、なんですか? 『人間失格』…?」
「おや、この文字が読めるのかい」
今度は老婆が驚いた顔をした。
本の表紙には『人間失格』、その下に『太宰治』と書かれている。これはかの有名な太宰治の作品である。
「この文字が読める獣人は希少だよ! あ、あんたは獣人じゃなかったね。人間、というのだったね?」
老婆自身は、この文字が読めないのだという。私は並べてある本の端からタイトルを読み上げていった。老婆は感心しながらそれを聞いている。
「なるほどねえ。外つ国の骨董品だとは思ったが、まさか人間の世界のものだったとは」
「私の世界でも古いとされてるものですよ」
「ふむふむ。素晴らしいね」
並べられていたのは『人間失格』と同じくらい古くて、でも有名なものばかりだった。私でも読んだことがあるもの。
「失礼」
声をかけてきたのは長身の男だった。犬のような三角の耳が生えていて、後ろに揺れる尻尾はたくさんある。
「ここにある本の文字が、読めるとおっしゃいましたか?」
「え」
話しかけられているのは老婆ではない。金色の目が細められて、咄嗟に頷いた。
「耳の形を見るに、貴女様は人間でいらっしゃいますね?」
「そ、そうです」
きゅっと男性の目が細くなった。
「いやあ偶然偶然! 骨董市にも足を運んでみるものですな!」
突然軽快に喋り出した男性に、身を引く。
「ん? ああ、あんた、大臣さんじゃないかい?」
「ご存知でしたか! 教育省の右大臣を勤めています、琥珀と申します。そちらの人間のお嬢さんは?」
「あ、えと、美々子と言います」
「ミミコさん! 良いお名前ですね! ところで、盗み聞きをしたようで申し訳ないのですが、貴女様はご自分の世界に帰れないので?」
「そう、そうなんです!」
身を乗り出すと、琥珀さんは大きな袖で口元を隠しながら、嬉しそうに言った。
「ならば私と来ていただけませんか? 貴女様がご自分の世界に帰るサポートをさせていただきたいです」
「え、ほ、本当ですか⁉︎」
渡りに船。差し出された手を取ろうとした私を止めたのは老婆だった。
「お待ち。そんな都合のいい話があるかい」
「おや」
琥珀さんの眉が下がる。
「確かに、こちらに利益が出なければこんな提案は致しません」
「相手はまだ子供だよ。お仲間にするような交渉はしない方がいい」
「そうですね、失礼致しました」
恭しく頭を下げた彼は、もう一度言う。
「貴女様の帰るサポートをさせていただきます。その代わり、貴女様には教育省直属の大学にて、人間語の授業をしていただきたいのです」
これは、私が裏の世界で先生になる、一番最初の出来事。
本屋を抜けた世界 折上莢 @o_ri_ga_mi_
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