第2話 ①

「大丈夫ですか!大丈夫ですか!」

さっきまで自分が投げかけていた言葉が、そのまま帰ってくるなんて。

起こったことが突然過ぎて自分を客観視してしまいながら、楓はゆっくりと目の前の女性に向き直った。といっても倒れたままだが。

青ざめていることには変わりないのだが、先ほどの気持ち悪さからくる表情ではなく、まるで自分の失敗を今から先生に怒られるような、そんな覚悟をした表情だった。

そういえば、妹がこの間こんな表情してたな。

あれはコップを落として割った時だったか、それとも掃除機を壊した時だったか。

思い出すと、少し笑いがこぼれそうになる。

楓は改めて自分の様子を確認する。父親のお古である紺のパーカーはちょっと目を背けたい状態になっていたが、それがきれいに受け皿になってくれたおかげで下半身は奇跡的にも無事だ。

これなら、パーカーを水洗いすれば何とか帰れそうだ。申し訳ないが駅のお手洗いを貸していただこう。だが、まずその前に。


「あの、ほんとにすいませんでした!」


「大丈夫ですよ。それより怪我とかなかったですか」


「全然。擦り傷一つないですよ。でも、私の事よりも洋服が、その……」


楓はズボンを汚さないように脱いだパーカーを、上手いこと丸めて立ち上がる。


「それならよかったです。ではこれで」


嫌な思いをしたのは確かだが、悪気があったわけではないし、先ほどの表情を見ていらだちもどこかへ消えてしまった。それに、大きな通路の真ん中でこんなに目立つ行為が純粋に恥ずかしい。

早くこの場から消えてしまいたい。いや、消える。即脱出。

幸い、駅のお手洗いはさほど遠くない。何もなかったふりをしながら早歩きだ。

そう考えた楓は女性から回れ右をきれいに行い、一歩を踏み出した。


「ちょっと待って!」


「うげっ」


と思った一歩目の途中で服の首元を掴まれる。

危うく首がしまりかけてしまった。


「何でしょう?」


思わずケホケホと咳き込んでしまう。

まだお礼を言い足りなかったのだろうか?

帰りが遅くなるので早く済ませてほしい。そう思いながら楓は振り向く。


「良ければお詫びに洗濯させて…ください。家が近いので」


俯き気味で女性の表情はよく見えないが声が少し震えていることからだいぶ重く受け止めているようだ。

そりゃあ、ヒトの服に盛大にもどしておいて、『はい、さようなら』よりはマシな反応だが、楓としてはとにかく帰らせてほしいのだ。


「ありがたい話ですがそこまでしてもらわなくても」


断りの言葉を口にした楓だったが、途中顔に水が滴ってきていることに気づく。


「うわ。また降ってきた」


今日の天気は予報通りだ。あのお天気キャスターのお姉さんはリピートしなければいけないだろう。

ふと女性を見ると片手に小さなハンドバッグと、どう見ても傘を持っていない様子だ。


「あの、傘持ってますか?」


女性が手にしているハンドバッグはどう見ても折りたたみ傘も入らないように感じたが、念のため聞いてみる。


「あっ………持って、ないですね」 


自分の手元を少し見た女性はそこで初めて顔を上げ、申し訳なさと恥ずかしさを合わせた表情で『あはは』と笑う。

お酒のせいだろうがほんのり色づいた頬と少しうつろな目がその表情と合わさり、楓は妙な葛藤におそわれる。

やっぱ聞かなきゃよかったかも。


「さっきの提案なんですけど、お願いしてもいいですか?」


少しずつ雨が強まる中、重たい口を上げる楓だった。


……………………………………………………………………………………………………


はたから見れば初々しいカップルに見えないこともない終始無言の相合傘。

しかし、その実態は加害者と被害者という、針の筵のような時間を過ごし歩くこと20分強。

駅から住宅街に入った先を進むと、


「ここがうちです」


女性が一軒の家を指さし、足を止める。

いつの間にか2人は目的地の前に立っていた。

目の前の目的地は、女性が一人暮らしするには大きすぎる一軒家であった。分かりやすく言うとサ〇エさんの家のような2世帯ほど住めそうな大きさの家だったため、楓はさっと女性の左手を見る。

指輪はなし。ただ、仕事柄などで普段つけない人もいるため確定ではない。


「ご実家とかですか?」


「ううん、一人暮らし。おじいちゃんたちが住んでた家を借りて暮らしてます」


そう言いながら彼女は鍵を玄関にさす。

旦那さんが居てまた謝られたりすると居心地悪くなるからやだなあ、と考えていた楓はホッとする。過ぎた謝罪は逆に申し訳なさしか感じない。


「どうぞ入ってください、すぐにお風呂も沸かしますから」


そう言う女性に対して先ほどから持っていた感覚について楓は口にした。


「あの、敬語じゃなくて大丈夫ですよ。別に先ほどの件については怒ってないですし。何か、年上の方に敬語を使われるのが慣れてなくて、むずむずするというか」


「本当に大丈夫?」


いいの?と女性は問いかける。


「はい」


「じゃあ、私に対してももっと砕けて話してもらって大丈夫だよ、ってそういえば自己紹介もまだしてなかったよね」


確かに、今更だがお互いの名前も知らない。まあ、知る余裕もないほど出会いが衝撃的だったというべきだが。


「橘(たちばな)鈴音(すずね)です。どうぞ、中に入って」


そう彼女は言うと楓に笑いかけながら玄関のドアを開けた。


「えーと、秋月楓です。お邪魔します」




靴を脱ぐと楓はすぐに脱衣所に通される。


「脱いだものとかはそこに置いてあるバケツに入れといてね」


楓は服とズボンの裾をまくりあげ風呂場に入り、汚れているパーカーの表面をシャワーで洗い流す。目に見える大きな汚れを落とすと脱衣所に戻り、足元に置いてあった青いバケツにパーカーを入れた。


「とりあえず、パーカー洗い終わったので青いバケツに入れときますねー」


脱衣所のドアは開けっ放しにしてあったので、大声で廊下に声をかけると


「ちょっと待って、すぐに着替えとお風呂の準備をへ˝あ˝っ」


「ん?」


遠くからいきなりカエルが踏まれたような声がしたため、気になり急いで向かう。どうやらリビングからのようだ。脱衣所に行く際、通り過ぎただけだからおおよその検討だが。


「どうかしたんですか」


急いでリビングに楓が踏み込むと、そこは廊下からドア一枚隔てただけとは思えないほど違っていた。



そこは汚いというよりもだらしがないといったほうが正しい空間だった。

まず目に飛び込んできたのが台所。

シンクは食器がごちゃごちゃと置かれており、かろうじてカビは生えていないようだが油汚れなどがその不衛生さを物語っている。どうやら食器乾燥機の中にも大量の食器が入っているようだ。

ゴミ袋はプラスチックごみ用のものがパンパンになった状態でいくつも冷蔵庫の横に重ねられていた。透明な袋なので分かりやすいが、コンビニのお弁当らしき容器とおつまみであろうお菓子のごみが目立つ。

燃えるゴミの袋も同じくらい山になっていたため気になり見てみると、洗うのが面倒になったのか、紙皿と紙コップ、割り箸のごみが非常に多いようだ。

見るに堪えない台所から目をそらした楓を待ち受けていたのは、また別の形のだらしなさだった。リビングの真ん中には乾燥まで終えたであろう洗濯物が大きな山を作っており、すでに土砂崩れが起きている。というか土砂崩れの起こった山から見覚えのあるスカートと足が飛び出ている。さらにはその周りには某有名通販の空の段ボール箱が至る所に散乱していた。いや、よく見ると中に梱包材や少し荷物が入っているものもあるようだ。

机の上は飲み終えたお酒の缶と瓶、空のペットボトルが並んでおり、床にまでその領土を広げつつある。


「いやー、お目汚しを………」


崩れた洗濯物の山から彼女がたはは、と笑いながら顔を出した。


「転がってる空き缶でこけちゃって。危ない危ない」


あはは、と恥ずかしそうに頬をかきながら笑う彼女の頭にはちょこんとハンカチのような小さな布がのっている。

その様子を見て固まっていた楓は開口一番


「自分に片づけさせてもらえませんか!?」


勢いのまま頼みこんだのだった。

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